ギャラリー日記

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3月31日A

山本冬彦氏がブログに私の一昨日の日記を紹介していただいた際に「不易」と言う言葉を使われた。
松尾芭蕉が俳諧の真理として言われた「不易流行」の「不易」なのだが、常に変わらないと言う意味で、大変含蓄のある言葉である。

改めてネットで調べてみた。

松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した概念です。
不易は変わらないこと、「不変の真理」を意味します。
逆に、「流行」は変わるもの、社会や状況の変化に従ってどんどん変わっていくもの、あるいは変えていかなければならないもののことです。
「不易流行」は俳諧に対して説かれた概念ですが、学問や文化や人間形成にもそのまま当てはめることができます。
森羅万象は時々刻々変化即ち「流行」しますから「知」は絶えず更新されていきますが、先人達はその中から「不易」即ち「不変の真理」を抽出してきました。
その「不易」を基礎として、刻々と「流行」する森羅万象を捉えることにより新たな「知」が獲得され、更にその中から「不易」が抽出されていきます。
この「不易流行」システムによって学問や文化が発展してきました。
一人ひとりの人間も「不易」と「流行」の狭間で成長していきます。
昨今は、「不易」より「流行」が重視される風潮が顕著です。
激動する現代、目先の価値観にとらわれ、短絡的に実用的なものを求めがちですが、このような時期だからこそ老子の「無用の用」や「不易流行」の意味をじっくりと考えてみたいものです。

要約だが、アートだけではなく、震災後の日本、原発の問題、混迷する政局など、「不易流行」を今問い直す時ではないだろうか。

3月31日

電車も止まるような春の嵐。
そんな悪天候の中をジャカルタのエドウィンさんが来日。
1時間しか寝れなかったそうだが、いたって元気。

アートフェアーとワダファインアーツで開催されるエドウィンギャラリー所属作家の展覧会もあって、急遽日本に来ることになった。
併せて、7月のジャカルタのフェアーで、日本人紹介ブースを設けてもらうことになり、私のところ以外にも東京画廊、オギタメグミ、ヨシアキ・イノウエとワダファインアーツの作家を取り上げてもらうことになっていて、そのミーティングも兼ねている。

昨年のジャカルタでは下にもおかないもてなしをされただけに、さてどのようにしてあげたらいいか頭を悩ませる。

子どもの頃からの模型少年で、今もプロ並みの模型と言うよりは芸術作品を造っていて、今回もそうした模型キットのあるところに行ってみたいと言う。
秋葉原なのか東急ハンズなのかよくわからないが、日曜日はスタッフに案内をしてもらうことにした。

夜の部も大いに関心があるようだが、こちらも私の手には負えそうもないので、若手画商さんにお任せしようと思っている。
何のことはない、全て他人任せのおもてなしとなってしまいそうだ。
更には来週からは釜山に行くことになっていて、大したお返しもできないままに滞在中に出かけてしまうのが心苦しい。
せめて桜が早くに咲いて春爛漫を満喫してもらえるといいのだが。

3月30日A

アートフェアー東京を見てきた。
昨夜も大勢の人が訪れたそうだが、平日の今日もたくさんの人で賑わっていた。
通路が広くなり、ワンフロアーにブースをまとめたことで、従来に比べて大変見やすくなり、お客様にも好評のようだ。
展示も現代美術エリアにはチャラチャラした感じが少なくなり、落ち着いたしっとりとした作品が並んでいるように見受けられた。
古美術もそれぞれが設えに凝っていて、格調高い作品と共に上品な空間を演出している。
それに引き換え近代美術エリアは、今まで現代美術エリアで見られたような作品の二番煎じか、俗っぽい細密画が多く、流行の上っ面だけをなぞっているようで、思わず通り過ぎてしまうブースが多い。
それぞれの画廊の持ち味と言うものを見せるのもアートフェアーの重要な要素だが、フェアーのための取って付けたような展示が大手老舗画廊に見受けられた。
餅屋は餅屋であって欲しいのだが。
こんなところにも今の近代美術画廊の舵取りの難しさが露呈しているのかもしれない。

3月30日

最近の月刊ギャラリーは「評論の眼」の小気味いい批評と、「小川英晴のアート縦横」のアートシーンの現状を語る対談も大いなる刺激剤になっていて、従来の美術雑誌の提灯記事とは一線を画した構成を毎号を楽しみにしている。
4月号のO・JUNと詩人・小川英晴氏の対談は偶々私共で発表している小林健二と夏目麻麦について触れていることもあって、余計に興味深く読ませてもらった。

「現代美術の展望」と題し、期待の新人などについて語っているが、その中で私もこうあって欲しいと思っていることをO・JUNが語るくだりがあり、長くなるが是非紹介をしたい。

O・JUNはドイツ留学の後、東京芸大の准教授を勤め、現在はミズマアートの作家の一人として活躍をし、国立国際美術館でも大規模な個展が開催された。

O・JUN・・・

日本はサイクルが早いじゃないですか。
流行り廃りが絵でも何でも。
でも向こうでは未だに抽象やってる人でもコンセプチュアルな人でも新しい仕事をしている人でも、一緒にずっとあり続けるんですね。
日本は淘汰されていきますよね。
やっぱり新しいものはどんどん感化されたり見過ごされたり見送られたりだけど、いい仕事をしている人は七十歳になっても八十歳になってもいるじゃないですか。
そういうものを見続ける余裕というか、時間があるんですよ。
いい仕事は流行り廃り関係なく行き続けられる。
それは凄くいい部分だと思うんですよ。
クオリティーがあれば流行り廃れの関係なく生きられるというのがありますよね、海外は。
日本はどんどん新しくなきゃいけない。

僕らの創るものだと、どうしてもあれはいいねとか人は言うじゃないですか、あれは良かったけどこれはどうかな、と。
僕らはそういう創り方をしていないんだよ、アンソロジーとしてものを創っているわけじゃないから、最終的に全集として読んでもらいたいですね、これだけのことをやったというのを。

この語りと同じ号の名古屋覚氏の「勝ち組・負け組・怠け組」を読んでもらい、今の風潮が果たしていいのかどうかをそれぞれが考えるべき時ではないだろうか。

3月29日

昼の暖かさは春近しを思わせるが、 いつもは早くに咲く画廊の前の大島桜は咲く素振りも見せない。

今日から東京アートフェアーという事もあってか、相乗効果で画廊に立ち寄る人も多い。
最近始めたフェースブック効果も大きく、以前に行ったことのある新橋の老舗料理店のご主人が、アートソムリエ・山本氏のフェースブックの写真を見て、展覧会を見に来られた。
明治13年創業のすき焼きのお店として知られるが、ご主人は海外で修行をされてソムリエとしての経験を積み、私の友人はワインとすき焼きを楽しみにこのお店をひいきにしている。
ソムリエ繋がりもまた何かの縁だろう。
フェースブックでは先日も写真で紹介した作品を早速に購入された方もいて、その発信力は大きいものがある。
フェアーには出展していないが、人のふんどし効果とフェースブック効果が相俟って、それなりの成果を期待したい。

3月27日

中国の大手オークション会社からようやく入金の知らせが入った。
11月初めの北京のオークションに出品した中国作家の作品で、予想以上の価格で落札され喜んでいたのだが、肝心の入金の知らせが入らず、気を揉んでいた。
何と約5ヶ月たっての入金である。
落札者からの入金がないからという返事だけで一向に埒が明かず、中国相手の商売が如何に難しいかを思い知らされた。
オークションの支払いは通常は1週間とか10日以内が普通なのだが、その常識は中国では通用しない。
約束は守らない、値切る、支払いが遅い、キャンセルするは中国の文化のようで、こんなことが当たり前のように行われていると、一流国家の仲間入りには程遠い。
オークション会社も困っている素振りを見せるが、これも当たり前のようになっていて、出品者への対応がおざなりになっている。
デポジットをとるとか、延滞利息を取るとか、常習者は落札禁止と言った措置を取らないと、いずれはオークション会社の信用も失われていくのではないだろうか。
まだ知らせだけで、入金を確認するまでは安心できないが、今度は間違いないだろう。

3月26日

山本冬彦さんの日記で取り上げていただきました。

羅針盤の後、ギャラリー椿へ。GTUの入り口から入ったが、川北博子の版画展をやっている。
版画としてもおもしろい作品もあるが、紙のパネルにしたものや樹脂を使ったものなど、版画のおもしろい見せ方が楽しい。



ギャラリー椿では恒例の服部知佳の個展。
会場一面が明るくさわやかで熱帯に来たような雰囲気。その前にやった富田有紀子さんと色合いが似ているが服部の方がカラフルで色彩も多様だ。
また、同じギャラリー椿でやる堀込幸枝とは陰陽対照的だ。
作家の中には、好きなのになぜか買うチャンスがないまま、もう買えない価格になってしまった作家がいるが、服部もその一人だ。
今回の個展もすばらしいし、気に入った作品もあったのだが、大きすぎてちょっと無理で残念。

3月24日

またまた土曜日は雨。
私のところは土曜日を展覧会の初日にしているだけに、毎週末に天気が悪いのはさすがにこたえる。

今日から服部千佳の個展である。
一足早く春が来たかのような華やかな色彩に彩られ、眩しいくらいの展示となった。
今回は出し切れるだけの色を使ったそうで、一点一点が違った色彩で描かれ、彩りの競演と言ってもいいだろう。
彼女独特の妖艶な色合いは更に深まり、強く見るものに迫まる。
それに加えて、人物画が主流の昨今にあって、植物の断片を切り取り、抽象的にさえ見える独特の造形表現も興味深い。
1月から堀込、富田、服部と続くが、それぞれが時流とは違った視点で今を表現していて、曽谷朝絵や伊庭靖子、夏目麻麦といった作家達とともに今後を大いに期待している。



3月23日

長男が弘前大学医学部の博士課程を修了し、医学博士の学位を取得した。
東京の大学で体育講師を勤める傍ら、全く違う分野の医学を学ぶことになり、勤務の合間を縫って弘前という遠隔地に通わなくてはならず、その上家族を抱えての前期・後期の4年間であったが、無事卒業を迎えることになり、親としてもこの上ない喜びであり、何より授業料の心配をしなくてすむのがありがたい。
長女も同じようにシドニー大学、ハーバード大学の医学部を経て博士号を取得し、現在育児休暇をとっているが、シドニーにおいて心臓を専門に研究者の道を歩んでいる。
親とは全く違う道に進み、次女に後継の道を託したいのだが、それもどうやらかないそうもなく、私は死ぬまで仕事をしなくてはならないようだ。
先の日記にも書いたように後継者がいなくて画廊を閉めてしまうところもあるが、大事な作家さんやスタッフがいる限り、その行く末を見届けなくてはいけない。
お世話になったお客様にも画廊を続けていくことが何よりの恩返しだと思っている。
長生きしなくては。

3月22日

青山のギャラリー「ときの忘れもの」にいた三浦次郎氏が独立し、新たに「みうらじろうギャラリー」を日本橋大伝馬町に4月21日よりオープンするとのことで挨拶に来られた。
先般もVOCA展の折に二人の方からニューギャラリーオープンのお話を聞いた。
私共にいた寺嶋もご案内のように17日に画廊をオープンしたが、立て続けに新しい画廊がオープンすることになり、誠にお目出度いことである。

それとは逆に、戦前よりの洋画商の老舗「サエグサ画廊」が閉店するとの挨拶状が届いた。
山口薫や麻生三郎、森芳雄、中谷泰など戦後美術のモダニズムを担った作家達を次々に紹介し、日動画廊と共に洋画商の草分け的存在であっただけに、その閉店は惜しまれる。
オーナーの老齢化と後継者がいないこともあって、やむなく閉店にいたったそうだ。
この界隈でも「ギャラリーところ」「双樹洞画廊」「画廊轍」「ギャラリー池田美術」など私と同じような年代の画廊主が店を閉じていった。
名古屋でも老舗画廊「伽藍洞ギャラリー」が病気のため閉店することになり、これまた同じ名古屋の老舗画廊「ハセガワアート」も店舗を閉じ、事務所だけの業務に移行するとの知らせをいただいた。
新旧交代の時期なのだろうか、アートの価値観が大きく変わる昨今において、ニューギャラリーのオープンとキャリア画廊の撤退は象徴的な出来事のように思える。
私も古い部類に入り、淘汰の中に組み入れられそうだが、ニューギャラリーに負けないよう、常に清新の気持ちを持って頑張らなくてはいけない。

3月21日

昨日は春分の日、お彼岸である。
午前中に両親の墓参りを済ませ、昼から水天宮に次女の子どものお宮参りに出かけた。
大安吉日ということもあって境内は大混雑で、ご祈祷の受付も長蛇の列。
水天宮は安産の神様で知られていて、私の子ども達も戌の日に安産祈願に出かけたが、この時はもっと凄くて、境内の外まで行列が出来ていたそうである。
次女は安産というわけには行かず、ご利益もあまりなかったが、それはそれとしてお礼参りとお宮参りを兼ねて、参詣することになった。
私は水天宮は初めてで、名前の割には小さい神社で、混雑するのも無理はない。
ご祈祷も大勢の家族が一緒に受けるようで、有難みも少なく、十把一からげでエイという感じである。
終えて、近くの料亭で向こうの両親と会食となったが、お宮参りセットと言うことで、料理以外に鯛の尾頭付きと赤飯のお土産、赤ちゃんの洋服がサービスで付いてきた。
座敷には赤ちゃん用の籠も用意されていて、さすが水天宮近くの料亭で、お店も同じような家族で大繁盛である。

3月19日

先日著名な物故作家の作品が鑑定で偽物と判断されたが、どうにも納得がいかず、その作家に詳しい人達に聞いてみるのだが、皆さん間違いないと言ってくれる。
今日はその作家の多くの資料を持っている同業者が訪ねて来てくれた。
その作家の初期の作品なのだが、資料によると似たような図柄の作品がいくつかあり、サインもキャンバスの状態も同じようで、どうしてこれが偽物と判断されたのか不思議でならないと言っていた。
鑑定家からはサインが全く違うのと当時はこうしたキャンバスや木枠を使っていないと言うことであったが、こうした資料を見る限りとてもそうは思えない。
そうした資料を見てもらいながら、もう一度どのような根拠でそう判断されたのかを聞いてみようと思っている。
更には筆跡鑑定の専門家に見てもらい、当時のサインと違うかどうかを確かめてみようと思っている。
いい結果が出て、鑑定が覆るといいのだが。

3月17日

先週は雪、今週は雨と土曜日は天気にたたられる。

私が入っているビルが2階から7階まで全て空いてしまい、大家さんができれば画廊ビルにしたいと言ってきたことは以前のブログでも紹介させていただいた。
最初に提示された家賃よりもだいぶ安くなったこともあって、関心のある画廊さんがぼちぼちとスペースを見に来られるようになった。
60坪と私のところよりも10坪ほど広く、展示会場としては絶好のスペース、アクセス、ロケーションも言うことなしで、私も大家さんに成り代わり、これ宣伝に努めている。
最近は銀座・京橋を離れ、周辺の問屋街や倉庫エリアに画廊が点在するようになったが、アクセスが悪く、私自身足が遠のき、滅多に行くことがない。
同じような思いをしているお客様は大勢おられ、やはり足の便のいいところに画廊が集まっているほうが行きやすいとよく言われる。

先日の日曜日に、私どもでも発表をしている作家の展覧会があって、信濃町にある画廊を訪ねた。
慶應病院の先を曲がった住宅街にあって、その一角にひときわ目立つ瀟洒な建物が目指す画廊である。
地下には外国のような広い展示スペースがあり、上の階はいくつかに区切られ、それぞれのスペースで展覧会が開かれている。
うらやましいようなビルの外観と空間に暫し見とれてしまったが、余程のことがなければ次にここまで来ることはないだろう。
新宿の父親の画廊に長くいて、その思いは余計に強い。

全てが画廊が入るビルになれば、どんなにお客様に喜ばれることか、大家さん以上にそんな思いでいる。
ついでに便乗値下げをしてもらえれば言うことないのだが。



3月16日

明日17日より私共に8年にわたり勤務していた寺嶋由起が浅草橋にギャラリーYUKIーSISをオープンする。
私共で発表をした池田鮎美(歩)、高木さとこ、川崎広平や昨年韓国のASYAAFに紹介をした森洋史など13名の作家による記念展でスタートする。
以前にも同じように長い間うちで働いてくれた中林亜美がお兄さんと一緒に開いた吉祥寺にあるカフェ・ギャラリー「パラーダ」も5年が過ぎ、順調にやっているようで何よりである。
二人ともお客さんや作家さんの人気者で、彼女達目当てに来られた方もたくさんいて、そういう方たちが私のところに来なくなるのは心配だが、まだ私のところには素敵なスタッフがいるのでどうぞお忘れなく。

私もこの世界に入って42年が経つが、不景気のところに震災の影響もあって、今までに経験をしたことのない厳しい逆風が吹いている。
そうした中でのオープンだけに、親心としては心配でたまらないが、ここが最下点と思って上に向かって進んでいって欲しい。
細く、長く、背伸びせずに続けていくことを心がけて、頑張ってもらいたい。

3月15日

歩いていると背中がポカポカ、春が後押ししてくれてるようだ。

昨日はVOCA展のレセプションに行ってきた。 先週まで個展をしていた富田有紀子も1996年の第3回の時に奨励賞を受賞しているが、多くの若手人気作家がここから飛び立っていった。
丁度以前にあった安井賞展のように新人の登竜門として位置づけられ、受賞者達は画商やコレクターから注目を浴びることになる。
昭和から平成に変わり、バブルが崩壊し、それと共に従来の画壇といった体制も崩れ、価値観が大きく変遷する時でもあったが、その混沌とした時に40歳以下を対象としたこの展覧会が始まったことで、新たな作家達が誕生することになった。
因みに、第一回の時には受賞作家の福田美蘭をはじめ、赤塚祐二、マコトフジムラ、小林正人、丸山直文、村上隆、岡崎乾二郎、大竹伸朗、山口啓介、吉沢美香など、今にすると錚々たるメンバーが選ばれていて、日本美術の新たな黎明期といっていいかもしれない。
それ以降も小林孝亘、奈良美智、伊庭靖子、会田誠、小谷元彦、山本麻友香、石田徹也、加藤泉、町田久美、山口晃、名和晃平、三瀬夏之介などなどを輩出し、文壇で言う芥川賞のような存在となった。
ただ、安井賞もそうだったが、毎年続けていくと以前のようにキラ星の如く作家が出てくるということは難しくなくなってきたように思う。
今回も全体を見た限り、以前のような華のある作家が見当たらない。
一人、二人、印象に残る作家がいたが、これぞと思うような作家が見当たらないと感じたのは私だけだろうか。
来年、第20回を迎えるにあたり、そろそろ2年に一回にするとかしていかないと、安井賞がそうであったように、推薦制をとるこうした展覧会の存続は難しくなるのではないだろうか。

3月13日

風は冷たいが、ようやく春の日差しが。

ジャカルタのエドウィンギャラリーのオーナー夫妻が今月末にやってくるとのメールが送られてきた。
東京のアートフェアーに合わせての来日である。
桜が見たいといっていたが、こう寒い日が続くと多分桜は無理だろう。

7月にジャカルタでのアートフェアーがあり、日本人作家によるブースを設けてくれることになっていて、私のところからは山本麻友香と浅井飛人に出品の依頼が来ている。
他に数軒の画廊の作家を紹介したいとのことだが、具体的な日時や場所、条件などの話は一切ない。
海外の画廊は大体がこういった調子である。

先月も韓国の画廊から釜山の美術館で陶芸展をやるので、日本の著名な現代陶芸作家を紹介して欲しいと依頼された。
運送費、保険代はもちろん、旅費・滞在費も美術館側で負担するという。
展覧会が5月なので、できるだけ急いでほしいと言われ、大慌てで心当たりのある作家さんにお願いをすることになった。
作家さんには具体的な場所と日時や内容も知らせなくてはならず、何度もメールを送るがなしのつぶて。
ようやく返事が来ると、今回は美術館の学芸員が全員辞めたので中止になったという。
よくもんそんな馬鹿げたことを言うなとあきれたが、急がせた揚句がこうである。
依頼をした作家さんには面目丸つぶれ、大恥をかいてしまった。

一事が万事こんな調子なのだが、不況の日本を思うとそれでもましな海外へと出て行くしかない。

3月12日

画廊の朗読コンサートに続き、土曜、日曜と友人の娘・Iさんのヴァイオリンコンサートや芝居などイべント尽くしの週末となった。
ヴァイオリン演奏は前衛的で難解なクラシック音楽で眠気を誘われたが、その卓越したテクニックは見事であった。
芝居は3月11日に際し、小学校時代の同級生のKさんが自分たちでも何か発信できないだろうかと企画したもので、ミンスクと広島に降った黒い雨をテーマに「あの日、あの雨」と題した芝居で、放射能の恐ろしさを訴えた。
(チェルノブイリの事故が隠蔽され、ベラルーシのミンスクの子供たちの四人に一人は白血病になったと言われている。チェルノブイリからミンスクまでの距離は福島第一原発から静岡の富士市までの距離と一緒である )
続いての出演者による朗読会は、私どもの会でも小池氏が引用した被災した子供たちの作文集「つなみ」からによるもので、ギターの演奏とともに涙ながらに語る姿に聴き入る私たちも涙を誘われた。
プロの小池氏やヴァイオリン演奏家とは違い、ぎこちなさが残り、決してうまいとは言えないが、必死に演じ・語る思いは私たちに伝わり、小さな芝居小屋は感動の渦に包まれた。
うまさだけではなく、心があれば人を揺り動かせる、これは美術にも通じることではないだろうか。

3月10日

朝から雪が。
まだまだ春は遠いようだ。
明日で震災から1年が経とうとしている。
被災地の春はもっともっと遠いだろう。

昨日、元NHKアナウンサーの小池保氏による朗読コンサート「大震災1年・祈りは千の風にのって」が画廊で開かれた。
雨がそぼ降る中を、思った以上の方にお越しいただき感謝である。

被災にあった子ども達の作文、詩人の詩、医師、著名人等の言葉を抑揚のある、しみわたるような口調で朗じられた。
今この時、誰もが口にする鎮魂、絆、希望といった言葉が、改めて氏の語りから胸に響いた。
荒れていた子どもが、津波の恐怖の中から妹を救い、喧嘩ばかりしていた兄の消息を思い、親の家業を継いでみようと思いたった息子を見て、苦労した母親が言った「辛いけど、津波のお陰で家族の絆が深まった」という話に思わず涙がこぼれた。
女流作家が言った「原発にも鎮魂を」の言葉も心に残った。
恨み嘆くだけではなく、労わり、鎮めることでいつか平穏に導いてくれる日がやって来るのではないだろうか。

時が経ち、辛い悲しい思いも薄れ、まるで他人事のように日常が通り過ぎて行ってしまう私たちだが、いつ自分の身にも起こるかもしれないこの不幸な出来事を共有し、この困難な時にこそ、立ち上がる勇気や奮い立たせる心を持つことが、被災にあった人たちの魂に報いることになるのではないだろうか。
関東大震災、太平洋戦争、広島・長崎の原爆投下、東京大空襲、神戸淡路や中越の大地震、いくつもの天災人災を乗り越えてきた私たちだもの。



3月9日

今日も雨、ここしばらく雨模様の天気が続き、画廊もいつもに比べると来る人が少ない。
そんな中、韓国のフォトアーティストのイ・ソルジュさんがやってきた。
去年の5月にGTUで個展をしてからの縁で、韓国のフェアーにも出品をしてもらっている。
その個展の折に、偶然訪ねてきた美人の女性がソルジュさんに自分のヌード写真を撮ってもらえないかと言ってきた。
彼の写真がヌードと花を重ねたダブルイメージのきれいな写真ということもあったのだろう。
スタイルもいいし、自信もあるのだろうが、いきなり自分のヌードを撮って欲しいと言うのには仰天した。
ところがソルジュさんは一目で気に入ってしまった。
韓国に来るなら撮ってあげるという事で話は決まった。
ただ二人きりは困るので、撮影時には付き添いがいるとのこと。
早速に私が名乗りを上げたが、これは即刻却下となった。
その後、彼女の写真はソルジュさんの作品に登場することになり、テグのフェアーでも私は知らなかったが、展示がされていたそうである。
今回またソウルで撮影をすることになり、その打ち合わせを兼ねて来日したようだが、次回の付き添いの申し出もすげなく断られてしまった。
どのような写真になるか、今度はしっかりと見なくてはいけない。

3月8日

兪君という中国の青年が私の所属するクラブで講演をさせてもらえないかと私を訪ねてきた。
以前に私が別のクラブで講演をした折に兪君の仲間に会う機会があり、その縁でやってきた。
彼は黒龍江省の貧しい片田舎で生まれ、苦学しながら、その村では初めての大学生となり、在学中に「伊豆の踊り子」を読んで日本文学に憧れ、大阪大学文学部に留学することになった。
卒業後、日本で華僑のネットワークの新聞社に籍を置く傍ら、華僑ビジネスのアドヴァイザーとして活躍をしている。
彼らグループは現在の中国の現状に疑問を抱き、中国文化が破壊され、拝金、拝権主義に偏る中国を憂い、特に彼は文学を勉強した立場から、中国の簡略文字によって中国精神が歪められてしまったことに心を痛めている。

一例を彼が挙げてくれた。
現在、中国の簡略漢字では、「愛」の心が抜けて、下の部分が「友」だけになっている。
「心」を込めない「愛」となってしまったそうだ。
「心臓」の臓は月に庄と書くそうだが、その字は「汚い」という意味で、心臓は汚い心となってしまう。

といったようなことから「漢字の成り立ちとその文化的背景」といったテーマで話をさせてもらえないかとのことであった。
聞いていても大変興味深い話なので早速クラブのプログラムに入れてもらうことにした。

3月7日

「もらっといてやる」で話題になった田中慎弥氏の芥川賞受賞作は「共喰い」だが、2007年に新潮社から出版された「図書準備室」も氏の著作の一つで、この表紙を飾っていたのが山本麻友香の版画作品であった。
どうやら文庫本化されるようで、今注目の人だけに書店に出ると彼女の版画作品も書店の棚を飾ることになる。
彼女が版画をやっていたことを知らない人も多いが、私が最初に出会ったのは版画の展覧会であった。
それがきっかけで私共で作品を発表することになり、しばらくは版画展が続き、骨太の力強い版画作品はコレクター注視の的となった。
先般もオペラシティーギャラリーの寺田コレクションの展示の折に彼女の版画作品が飾られていて、それを見たカナダ人の大学教授が画廊に訪ねて来て、版画作品を買い求めてくれた。
イギリスに留学する前後から油彩に転じて現在に至るのだが、私共には当時の版画作品が残されているので、いずれ機会があれば展示をしてみたいと思っている。

3月6日

橋下徹大阪市長は市立学校の教職員に君が代の起立斉唱を義務付ける条例案を提案し、大阪市議会は賛成多数で可決、成立したニュースが流れた。
国歌を歌う事を条例で決めなくてはいけないとは何とも情けない話である。
娘の卒業式で生徒父兄が全員起立して国家を斉唱している中で、一部教員がいきなり着席したのを見て、腹立たしい思いをしたことがある。
生徒たちが授業で起立・礼をしないとしたら教員はどんな思いがするのだろうか。
礼を欠き、敬意を表すことができない教員に生徒を指導する資格があるのだろうか。

昨日、作曲家・すぎやまこういち氏の講演「国歌・君が代は名曲です」を聴いた。
氏は私の高校の大先輩で、東大に進み、フジテレビのディレクターを経て、作曲活動に専念し、「亜麻色の髪の乙女」、「恋のフーガ」、「花の首飾り」、「学生街の喫茶店」など多くのヒット曲を作り、現在は「ドラゴンクエスト」の全作品の音楽を担当し、オーケストラによる交響組曲のコンサートを各地で行っている。
氏によると「君が代」は国歌の世界コンクールでも一位に選ばれたくらいの厳かで凛とした名曲であるという。
レで始まりレで終わり、ユニゾン(ハーモニーがついていない)で始まり、ユニゾンで終わる国歌は世界に例がない。
また、1オクターブと1度の音域にあるので誰でも歌うことができる普遍性の高い曲だそうだ。
そんな世界に誇る名曲を歌うことに私たちは誇りを持たなくてはいけないし、伝えて行くことで、日本人の尊厳を保つことが出来るのではないだろうかと語られた。
最後に国力は経済力と文化力の両輪の上に成り立つもので、今の政権にはその自覚がないことを大変心配されていた。

3月4日

またまた山ガールが大勢来るからとの友人の言葉に誘われて、スノーシュー(かんじきをお洒落にしたような履物)を履いての雪上ハイキングに行ってきた。
車山山頂から霧が峰高原を廻る約3時間のコースで、私のような初心者には真向きのお手軽コースだそうだ。
偶々、エヴェレスト登頂に最初に挑み、果たすことができなかったジョージ・マロリーの伝記を読んだばかりの私は、「そこに山があるから」と言った彼の言葉を噛み締めながら、エヴェレストに挑むマロリーになった気分で、山歩きを楽しんだ。
一面真っ白な雪原の中、雄大な景色を眺めながらの山歩きは、実に気分爽快、山に魅入られる昨今の山ガールの気持ちを理解することができた。
とは言え、今回も若い山ガールは一人も現われず、次からは決して友人の口車に乗るまいと心に決めた。



3月3日

前橋市の市長が交代し、美術館事業が見直され、予定されていた学芸員の採用も中止となったというニュースが、地元の上毛新聞に掲載された。
県庁所在地で唯一美術館を持たない前橋市が既存の建物を利用して、ようやく美術館を持つことを楽しみにしていたのに。
予定されていた山本麻友香の個展や800点の所蔵作品はどうなってしまうのだろうか。
隣りの高崎市には、公立の美術館と博物館が6館もあるのに対し、前橋市には一つもなく、新幹線も通らない、関越道からも外れるでは、前橋市民はちょっと肩身が狭いのでは。
箱物がいけない、経費節減でばっさりと文化を切り捨てるのではなく、諸外国の都市を見習い、文化が地方行政にどれだけのメリットがあるかを検討してみたらどうだろうか。
地元の人のブログには、文化的失政と書いてあった。
目先ではなく、将来を見据えた文化行政を是非とも考えてもらいたい。

3月2日

10数年前に見て、是非展覧会をと思っていた作家がいた。
その間、何度も画廊に来て、サインもしてあるのだが、何故か名乗らずに帰ってしまう。
顔も知らず、作品だけを知っているという幻の作家であったが、ようやく出会うことができた。
南青山の画廊で発表をした尾関立子である。
最初に見た時以上の感動で、並んでいる作品に感銘を覚えた。
山本麻友香、山口啓介の銅版画を初めて見たときもその強いインパクトに圧倒されたものである。
3人とも武蔵美の版画を同じような時期に卒業しているのも、ただの偶然なのだろうか。
黒一色でこれだけの強く深い表現ができるのが素晴らしい。
昨年12月の渡辺達正や現在開催中の武田史子の版画展も好評で、多くの作品が売約となっているが、尾関を含め、ここらで逆境にある版画の再興のきっかけになればと思う。
画像ではその強さや奥深さを見せることができないので、いずれ画廊にて実際の作品をお見せできればと思う。
是非期待していただきたい。

3月1日

二日続けて早朝に地震が。 その前の夜中も携帯の地震を知らせる音に起こされたが、こう毎日続くと東大地震予知研の予報も真実味を帯びてくる。
ただ携帯の緊急地震速報は狼少年みたいなもので、全く当てにならない。
殆どがその音にびっくりするだけで、肝心の揺れを感じることはあまりない。
もう少し精度を良くしてもらわないと、たかをくくってまたかとなっては困る。

我が家も喉もと過ぎればで、走り回って買い集めた災害グッズもしまいこまれたままで、いざという時に役に立ちそうにない。
ということで再点検をしてみた。
非常用食料は賞味期限が過ぎていたり、乾電池も使っていたりで、これもまたいざというときには間に合わない。
備えあれば愁いなしで、常に点検怠りなしとしなくては。

2月29日

エッといった感じで朝から雪。
三寒四温とはいえ、雪まで降らなくていいのに。

画廊も暇に違いないと朝から新国立美術館に文化庁メディア芸術祭受賞作品展と五美大卒業制作展を見に行ってきた。
夏に例年頼まれている朝鮮日報主催のASYAAF展の推薦作家の下見も兼ねて行ってきたのだが、その前に入ったメディアアート展に目を奪われた。
今までどちらかと言うと冷ややかに見ていたアニメやコミックを見直したというより、世界に誇る日本の文化だということを実感させられ、目からうろこである。
想像力と創造力にとみ、明るく、温かく、心を浮き立たさせるような作品ばかりである。
先に希望が見えるような昂揚感さえ覚え、時の経つのを忘れて見入ってしまった。

それに引き換えというと語弊があるが、五美大展は固く、重苦しく、見ていて心が沈んでいくような陰鬱な感じにさせられた。
大学や院で勉強し、これから羽ばたこうとする美学生にしては、ハッピーな部分が見えてこない。
今の時代が暗澹としているせいかもしれないが、あまりに華がなさ過ぎるように思えてならなかった。
そんな中で数人の学生を選んで声をかけさせてもらおうと思っているが、果たして韓国側の選に通るかどうか不安である。

2月28日

山本冬彦さんのアート日記から。

羽生善治将棋名人著「才能とは続けられること」

何事もそうですが、作家も画廊もコレクターも羽生さんの本のタイトルどおり「才能とは続けられること」。
一時的な人気に驕ることなく、全く人気が出なくても前を向いて続けることが大切です。
やめればおしまいです。

2月27日

知人の理学博士で金沢大学名誉教授・高山俊昭氏から新たに上梓された本をいただいた。
氏は千田日記のペンネームで趣味のクラシック音楽にまつわるエッセイ集を既に三冊刊行されていて、今回の「金沢蓄音器館のレコードコンサート」が第四冊目となる。
クラシック音楽への造詣と、とても学者とは思えない洒脱な文章には定評があり、いつも楽しみに読ましてもらっている。
クラシック音楽だけではなく、津軽海峡冬景色からAKB48まで登場し、そのユーモアーと風刺の効いた小気味いい文章は、日本エッセイスト賞をもらってもおかしくないほどである。
前回同様に私も登場していて、この辺だけが気にかかるが、いつも本をいただくよしみで致し方ないとしよう。
もうひとつ気になるのは、表紙のデザインを自画自賛していて、何を勘違いしたか、私のところからいつ声が掛かるのかと首を長くして待っているとのこと。
こちらは10年早いと言っておくが、お年がお年だけに間に合うかどうか。



2月25日

今日から富田有紀子展が始まった。
今回は画廊が赤一色に染まった。
柘榴の実やビーズ、いくら、ビー玉などを題材に、クロ−ズアップした球体を赤い華やかな色彩で描いている。
一つ一つは小さいものだが、人の目ではなくレンズを通して大きく捉え、マクロ的表現の中にその形の物質感を表現している。
圧倒されるよな画面が並び、富田の新たな世界が生まれた。

2月24日

春が更にもう一歩近づいてきたようなポカポカ陽気。
くしゃみ鼻水もどうやら花粉症ではなかったようで一安心。

ギャラリーセンタービルで始まった内外物故作家展を見に行った。
価値観が多様化し、ここに並んでいる著名作家の影も薄くなってしまったが、日本の美術史を飾ってきた作家たちをこうして取り上げていくことも、画商の役目ではないだろうか。
あまりに今の風潮に流されて、こうした作家達をなぞることをしていかないと、日本の近代美術が欠落してしまいかねない。
先日も高崎市の美術館で開かれている脇田和展の話を聞いたが、平日は数人の入場者しかなく、多くの人が脇田和の名前も知らないそうだ。
以前にも私のところでアルバイトをしていた芸大の版画専攻の学生と林武宅に行くことがあったが、彼はその名前を知らなかったどころか、芸大の版画専攻科に入るまで、駒井哲郎さえ知らなかったというから驚きである。
作家の名前を知識として知る必要はないが、どういう仕事をしてきたかを知ることはその道に進むものにとっては必要なことである。
確かに今の時代感覚とずれているのは致し方ないが、そうした先達の時代があって今があり、未来があるわけで、その部分を否定するような風潮だけは避けなくてはいけない。
温故知新という言葉もある。
論語の「子曰く、故きを温ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし」から来ている言葉だが、新たに作家の道に進む人も画商を志す人もこの言葉を忘れないでいて欲しい。

2月23日

三人の家族が餓死していたというニュースが流れた。
このニュースだけでも驚いたが、こうした餓死者はこの一年で700人ほどいるというから、吃驚する。
豊かだと思っていた日本でこんな悲惨な状況が現実にあることを知ると、いったいこの国はどうなってしまうのだろうかという危惧感を抱く。

先日、台湾出身でテレビのコメンテーターでも知られる金美齢女史の講演を聴く機会があった。
女史は国民党による台湾人弾圧時代を経験し、日本に留学してから台湾民主化運動に参加し、民主化が進むまで30年以上も祖国の土を踏むことが出来なかった筋金入りの反共闘士でもある。
女史は今の日本の現状を憂い、「日本復活、今、日本人の持つべき心は!」と題して私たちに訴えかけた。
世界第2位の経済大国となった日本は、その繁栄と豊かさを享受するうちにすっかり甘やかされ、日本人としての大切な心を失ってしまったのではないかと言う。
考えれば考えるほど抑止力が重要であることがわかったという能天気なお坊ちゃん首相や、国家や国旗をリスペクトしない市民運動出身の首相のように、日本人としてのアイデンテティーを持たない政治家達をリーダーに仰ぐ日本を、果たしてこれでいいのだろうかと嘆く。
台湾は30年にわたる植民地時代に日本人の手によってインフラが整備され、繁栄の礎を築いてくれたことで、日本に対し絶大なる感謝の念を抱いていて、そこで教わった日本精神を心の支えにしている。
その日本精神を今の日本人は忘れてしまったのではないだろうか。
この国難に際し、日本精神を発揮し、日本人としての自負、矜持、誇りをもって、今どうあるべきか、何をなすべきかを考えて欲しい。
それには先ず国益を考え、今後の日本に何が必要かを考え、うつむかずアグレッシブに行動して欲しいと結んだ。

確かに政局に明け暮れ、一向に前に進まない政治家達に任せず、自分達が日本人としての自信と誇りを持って動くべき時なのかもしれない。

2月21日

ようやく春の兆しが。
その兆しがとんでもないことになりそう。

2,3日前から鼻がむずむずして鼻水が止まらない。
その前から喉が痛くなってきたので危ないなと思っていたのだが、いきなり鼻に来てしまった。
風邪だと思っていたら、スタッフに聞くと花粉症かもしれないと言う。
我が家は全員が花粉症知らずで、毎年春になると皆さんお気の毒と他人事のように思っていたが、まさかこの歳で花粉症に。
まだ何とも言えないが、海老など2,3の食品で蕁麻疹が出るアレルギー体質だから、その可能性はある。
アレルギーと言えば、先日ソウルに行った折にサムゲタンをご馳走になったが、このサムゲタンは漆の木と一緒に鶏を煮込むオッサムゲタンという料理で、食べる前に漆にかぶれたことはありませんかと聞かれた。
漆にかぶれたことはないが、もしかしてと不安になりつつも、あまりに美味しくてそんなことも忘れて完食。
食べる前に予防の薬を飲む人もいるようで、それまでして食べようというのだから不味いはずがない。
幸い事なきを得たが、山漆のある山に入り、そのそばに近づいただけでかぶれる人もいるから、漆の威力は相当なもので、このサムゲタンを食べるのは命がけである。
漆にかぶれなかったといっても、花粉症にならないとは限らず、 どうかこの症状が風邪であります様に・・・?



2月20日

今日から武田史子展が始まる。
彼女の展覧会を私のところで初めて開催したのは1998年、14年前のことであった。
既に期待の版画家として注目を集め、いくつもの画廊で個展やグループ展が開催されていたが、縁あって私共でも開催することになった。
空想の建物や不思議な小箱や壷に魅せられ、彼女の寓話の世界に引き込まれた。
それから年数を経て、今またこうして彼女の作品を展示できたことを喜びたい。
今回は鳥や植物をテーマに彼女独特のイマジネーションの世界を表現している。
銅板の黒の画面に僅かだが彩色を施し、微かな華やかさを添えている。
版画家にとっては逆風の時代だが、ぶれずに自分の道を進むことで必ずや光明が見出されるはずである。
今回の展示を契機に更なる飛躍を期待したい。

2月18日

「大震災1年 祈りは千の風にのって」と題して元NHKアナウンサーでコレクターとしても知られる小池保氏による朗読コンサートを来る3月9日(金)に私共で開催することとなった。
大震災から丁度一年、私たち世代にとっては今まで経験をしたこともない、忘れることのできない大災害であったが、日が経つにつれ、その悲しい辛い思いも風化していく。
そんな中、鎮魂と希望のともし火を絶やさないことが残された私たちに課せられた使命という小池氏の思いを受け止め、被災地の子ども達から発信された言葉を朗読していただくことになった。
詳細については、私共のホームページのお知らせに掲載されているのでご覧いただき、是非お越しをいただきたい。

いま一つ同じような催しが開かれる。
村井志摩子作「あの日、あの雨」が小学校の同級生の加藤素子さんの自主企画により、3月10日、11日に山吹町の「絵空箱」にて上演される。
偶然だが、被災地の子ども達の作文集から「つなみ」と題した朗読会も併演される。
彼女は教員を途中退職し、蜷川幸男が主宰する55歳以上限定の演劇集団「さいたまゴールドシアター」に所属し、熟・女優として活躍しているが、公演を通して何か発信できないかとの思いで、今回初めての自主企画となった。
私のところと連日の企画だが、日曜日に行ってみようと思っている。

2月17日

アジア・アライアンス時代を生きる〜共生するアジア経済〜と題したシンポジウムに行ってきた。
知人のアフラックの最高顧問の大竹美喜氏に誘われて、氏も関係しているアジア・アライアンスHDが主催するシンポジウムで、私もアジアで仕事をしているなら是非にということで出かけた。
元外務省アジア局長で田中角栄首相秘書官として日中国交回復に携わった木内昭胤氏、中国金融界のトップで次の中国の最高指導者に確定している習近平を育てたことでも知られる羊子林氏、香港金融界のトップで台湾出身の長原彰弘氏、元ソニーのCEOで現在レノボ等いくつかの中国大手企業の社外取締役を務める出井伸之氏など錚々たるメンバーが講演者、パネラーとして参加した。
アジアということではなく、中国に絞り、「中国と日本の金融・経済展望」、「中国市場での成功の道」、「日中共同事業・提携事業の展望」を議題に大変興味深い話が聴けた。
中国経済の成長は目覚しいものがあるが、更には都市への人口の移動、13億の人口を背景に中産階級層の拡大などで大きな消費が見込める巨大市場となっている。
こうした中での成功者達の話はスケールが大きすぎて、別世界の話に聞こえてしまうが、ビジネスチャンスは大きく開けている。
とは言え、中国とのビジネスは一筋縄ではいかず、出井氏の言によるとパートナーにはよほど気をつけなくてはいけないとのことであった。
それではどうやって道が開けるかについては、要は政府と折り合いを良くし、いかにいい人脈を見つけるかにかかっているようだ。
事業としては環境保全、省エネ、ヘルスケアーなどへの投資に大きな可能性があるという。
中国バブルが崩壊するのではという話でも、中国が世界最高の資本主義国家、日本が世界最高の社会主義国家であって、金融引き締めや民間金融機関の破綻の影響が大企業に出るかもしれないが、中小企業が元気なこともあって、経済が悪くなるというリスクは少ないとのことであった。
日本経済は日米から日中に視点を移し、日中で競争し、協力することで相互に発展するしか道がないようだ
来週から香港のマンダリンホテルでのアートフェアーに参加するが、美術業界のよきパートナーを香港で見つけなくてこなくてはいけない。

2月16日

今日はソウルに負けないくらい寒い。

しばらく続いた処分の件も肩透かしばかりで、労多くして成果無し、我が身も寒々としている。
いいと思った作品は鑑定の結果、偽物と判明、自分の不明を恥じつつも、いま一つ納得がいかない。
60年前の著名作家の初期作品だが、こうした若い頃の作品の贋作をわざわざ描くのかと疑問に思いつつも、鑑定の結果だから仕方がない。
料亭の件も数え切れないくらいの点数がありながら、屏風や掛け軸、道具類等一切合財ひっくるめて10万円の査定。
普段使いしたり、痛んでいたり、箱がなかったりで、殆ど評価されないとは同行してもらった専門業者の弁だが、物の値打ちもこんなものかと心が痛む。
我が家の遺品整理も、先ずは文学全集や美術全集など大量の書籍が古書市で手取り5千円、当時は高価だった毛皮やあつらえの洋服、ハイヒールやハンドバックなども車に乗せ切らないくらいの量で2万円、たんすにしまいこまれていた呉服はいいほうで8万円だったが、ぞうりや帯などの処分費用で、差し引き3万円。
付き合いで買った陶器類も親しい方に差し上げた方がましとのことで、粗大ごみや電気製品などリサイクル業者に出した金額のほうが上回る始末で、両親もさぞかし嘆いているだろう。
ブランド物だったら値が付くといわれ、大事に使わずにしまっておいて、箱から何からきちんとしておけば値が付くという。
こうなると買ってもしまっておくのが一番いいことになる。
手前味噌になるが、こう考えると飾ってあったり、埃をかぶっていても、私共が扱う美術品のほうがそこそこの値が付く。
恒例の我が画廊のオークションでも最低価格を1万円とするのはとても気が引けるが、古い物の十把一からげの査定を考えると良心的といえるのかもしれない。
東北の被災された方に送ったほうが良かったのではとも思うが、仮設住宅で毛皮や鰐皮のハンドバック、ハイヒールの類が果たして喜ばれるのかどうか。
どちらにしても身辺整理は早くしたほうがとの結論に至った。

2月13日

極寒のソウルから帰って来ました。
肌を刺すような寒さだったが、時間が経つと寒さに慣れるのか、外気の気温ほどに感じなくなるから不思議だ。
殆どが展覧会の打ち合わせで、仕事の方は滞りなく終わらすことが出来たのだが、ボケの進行が一段と早まり、香港に続き失敗ばかりの日々だった。
まずは行く前にスタッフが用意してくれたEチケットやホテルの予約表、行き先の書かれた地図、日程表など全てを机に忘れたのに始まり、頼まれて持っていった草間弥生の油絵を銀行窓口に置き忘れ、翌日にはATMでキャッシュカードを忘れ、最後の日にはリムジンバスのチケット売り場にパスポートごと財布を忘れてしまった。
こうまでボケが廻ると自分のことながらほとほと情けなくなる。
全てが戻ってきたり、再発行してもらったりで、最終的には事なきを得たが、ひとつのことをやろうとするともうひとつのことを忘れるという体たらく。
海外出張はいよいよ付き添い介護が必要になってきた。

2月7日

昨日からの冷たい雨が朝になっても止まず、重装備で出勤。
明日からのソウルはどうやら晴れの日が続きそうで一安心だが、寒さが尋常ではないので、更に重装備で出かけなくては。

韓国に行く時いつも困るのは、お土産に何をするかである。
台湾から来る方はきまってパイナップルケーキ、韓国の方は韓国海苔か朝鮮人参と相場が決まっているが、日本からとなると何にしていいか迷ってしまう。
かさばらないようにとお茶とか海苔が多いが、これも定番過ぎて私たち同様に先方にまたかと思われてしまってもいけない。
何が喜んでくれるのか一度聞いてみなくてはいけないが、今回はこれぞというのが見つかった。
草間弥生の水玉パッケージのクッキーを先日ブックレイヤーの浜田氏からいただいたが、これは韓国の美術関係者には絶対に受けるはずである。
表参道ヒルズで売っているというから家内に買ってきてもらうことにした。



2月6日

多摩美術大学美術館では2月4日から2月26日まで「浜田晋コレクションの版画」と題した展覧会が開催される。
浜田晋氏は現場医療の重要性を訴え、地域に密着したきめ細やかな精神医療のパイオニアとして活躍された精神科医だが、その傍ら、長年にわたり有名作家から若手作家まで多くの版画作品を蒐集された。
そのコレクション545点を多摩美術大学に寄贈することになり、うち150点が今回展示されることになった。
浜田氏は作品寄贈の後に亡くなられ、残念ながらこの展覧会を見ることが出来ないが、医業の業績と共に秀逸な作品が散逸することなく、多くの人の目に触れることを喜んでおられることだろう。
版画マーケットが低迷をしている中、こうした一貫した版画のコレクションあったことを知っていただき、個人コレクションの一つのあり様として注目したい。

2月5日

寒い中、今週は連日母の家の整理と2軒のお客様の美術品の整理があってくたくた。
我が家はもちろんだが、お客様の美術品も数だけは大量にあるが、お宝は見つからず、ただただ残るは筋肉痛と埃とカビで喉が苦しいだけである。
今月の16日から新人の女性が私のところに勤務することになったが、画廊がきれいな仕事だけではないことをすぐに知ることになるだろう。
彼女は帰国子女で、TOIECの成績が900点近いという抜群の英語力の持ち主で、海外の仕事がとみに多くなっている私のところでは大いに期待をしている。
少しの期間だが、画廊にも勤務をしていたこともあり、その経験も是非いかして貰いたい。
皆様にもプロフィールなど改めて紹介させていただく。

2月4日

昨日が節分で、今日は立春。
今年は母親の家の整理で我が家に引き上げてきた荷物がぐちゃぐちゃで、豆まきどころではない。
それでも一応「恵方巻き」を夕食代わりに食べることにした。
いつからだろう、恵方巻きがコンビニやスーパーでも売られるようになったのは。
私もついこの前まで知らなかったが、京都生まれの家内が言うには昔から関西ではこの習慣があったそうだ。
いつの間にか全国区になってしまったが、これもスーパーなどの戦略で、次に控えるバレンタインデーと同じ手合いなのだろう。
それに乗せられる私も私だが。

立春とは言え、いつも日記で使うフレーズ「春は名のみか、風の寒さよ」の通り、格別寒い日が続くが、それでも今日は久し振りに暖かく感じた。
日本列島は今年は記録的な寒さだそうだが、来週から行くソウルはもっと寒いようで、予報では出かける週半ばには最高がマイナス6度、最低がマイナス13度というからあきれる。
できれば行きたくない。

2月3日

先の日記でもお知らせした朝日新聞厚生文化事業団主催の公募展「NEXT・ART展」のHPが出来たので紹介させていただく。

http://www.asahi-welfare.or.jp/nextart2011/photogallery/index.html

私共で昨年個展を開催し、更には朝鮮日報主催の展覧会にも選ばれた青木恵と、仙台在住で同じく昨年GTUで個展をしたうじまりが入選をしていたのは何よりである。
昨日の芸大卒展でもそうだったが、入選者の作品を見てみると、多くは今の流れとは違った方向性の作品が多く、若い作家達も独自性を打ち出そうとしているように見受けられた。
また、こうした若い作家達の作品がデパートで展示されることは、美術ファン以外の方に見てもらえるいい機会になるのではないだろうか。

  2月2日

東京芸大の卒展を見に行ってきた。
途中に多摩美の卒展もやっていたのでこちらも一緒にのぞいてきた。
日本画、彫刻には見るべきものがなかったが、油画、工芸に目を引くものがあった。
特に工芸に興味深いものがあり、偶々気にいった作品の前にいた学生に声をかけさせてもらった。
この秋に、先日浅井飛人作品を展示してくれたジャカルタの画廊から浅井を含め数人の立体展を企画して欲しいとの依頼があり、一度画廊に資料を持って来てもらい、よければ紹介をしてみようと思う。
油画も昨年海外に紹介させてもらった作家もいるので、丹念に見て廻ったが、いいなと思う作家は既に今年展覧会が決まっていたり、画廊の扱い作家になっていたりで、就職戦線厳しき折に、ここでは既に青田買いが始まっていた。
そういう私も、海外からの依頼もあって、眼鏡にかなう作家を探しに来ているのだから、何をかいわんやである。
殆どの学生が作品の前にポートフォリオや名刺を置いていて、卒展イコール就活の場にもなっているのだろう。
以前はアーティストが名刺を持つなど、ましてや学生が名刺を作るなど考えられなかったが、時代も変わりこうして自分をアピールすることはとてもいいことである。
黙して語らずがアーティストとしての矜持という時代ではなくなったのだろう。
デザインは時間がなくなり見ることができなかった。
こちらは時代の先端を先取りする学部だけに見たかったのだが、約束があるので仕方がない。

1月31日

どうせ壊れて動かないと思っていたシリンダー式蓄音機のハンドルを回すと、何と微かな音色が流れてきた。
スムーズとはいかないが、歌声や演奏の音がざわざわという音に混じって聞こえてくる。
デジタルが当たり前の世の中だが、この不器用な音が何とも言えず郷愁を誘う。
母の家を整理していると、他にも父が集めたパイプのコレクションやら古鈴のコレクションやら今時あまり見ることのない代物も倉庫の奥から出てくる。
なんでも鑑定団に出すほどの物はないが、ガラクタと思っていたものも年月を経るとそれぞれに趣が出てくるから不思議だ。
銀座の老舗帽子店「トラヤ」のソフト帽やハンチングも出てきて、早速に昨日の晩は父のソフト帽をかぶって立食のパーティーに出かけた。
丁度、前の晩にテレビで見た映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のロバート・デ・ニーロを気取ってみたのだが。

1月29日

母の家の整理をしていたら、父親が道具屋から買った古いシリンダー式の蓄音機が出てきた。
音が出るかどうかはわからないが、珍しいものなので我が家に置いておく事にした。
蓄音機の後からは古いレコードも出てきて、その中に私が高校生の頃に聴いていたPPMやブラザースフォーのレコードもあって、当時が懐かしく思い出される。
当時はフォークソング全盛の時代で、学生時代にそうしたフォークやウエスタンバンドをやっていた連中が、最近また親父バンドで活躍するようになった。
私の親友も「ローガンズ(老眼ズ)」というカントリー&フォークの親父バンドを組んで、楽しそうにやっていて、私の画廊でもライブ演奏をしたこともある。
レコードプレイヤーも処分してしまったので聴く事もできないが、他にもジャズのLPなどがあってレコード屋に売るかどうか迷うところである。



1月28日

朝,散歩から帰ってくるといきなりドーンという突き上げるような揺れが。
思わず、東大地震研が出した4年以内に70%の確立で首都圏大地震の予報がいち早く当たったかと肝を冷やした。
テレビをつけると震源地が富士五湖になっている。
河口湖に家があり、震度5というから、多分飾り棚の陶器やオブジェは落ちて粉々になってるだろなとあきらめていたが、何にも被害無しの連絡が管理人からあった。
一安心だが、富士山噴火の前触れかと又不安が脳裏をかすめる。
この年だからその時はその時であきらめるしかないが、家内は今のうちに好きなことはやっておかなくてはと言っている。

偶々昨年の大地震のときに個展が始まり、私のところに向かう途中で新幹線に缶詰にされたYさんが画廊にやってきた。
Yさんはその後も韓国のフェアーに行くために羽田に向かったが、大型の台風が来て電車に閉じ込められたり、帰りのソウルの空港でも事故があって、バスを降りて空港まで歩いたそうだ。
そのYさんがやってきたのだから、地震が来たのも不思議ではない。
できればYさんには外に出ないでじっとしていて欲しいのだが。

1月27日

先般よりお知らせしている、朝日新聞厚生文化事業団による「Next Art展」の最終入選者が決まった。
入選者名はいずれホームページにて発表される。

入選作品32点は以下の予定で展示・販売される。

@ 2月4日(土)〜16日(木)朝日新聞東京本社・本館2階コンコース
午前10時〜午後7時(12日〈日〉は休館)

A 3月2日(金)〜5日(月)松屋銀座8階大催場・朝日チャリティー美術展併設会場 午前10時〜午後8時(3日は午後6時、5日は午後5時まで)
※松屋銀座の展示会場で入札方式により希望者に販売する。
最低価格2万円で、落札値の半額を制作者に還元し、残額を社会福祉事業へ寄付することになっている。

1月26日

昨日審査の帰り、新橋演舞場のすぐそばに立派な門構えの屋敷があるのを見つけた。
入り口にレストラン「花蝶」と看板が出ていて、横にあるメニューには賄いランチと書いてある。
覗いて見ると、1000円と書いてあり、その値段につられて入ってみることにした。
石畳を踏んで玄関に入ると、靴のままで入ってくださいといわれ、立派な設えに躊躇しながら、案内されるままに階段を下りて部屋に入った。
途中に見えた広間には新鋭の日本画家福井江太郎の襖画が飾られ、バーラウンジなどもあって、豪壮なレストランである。
それもそのはず、かって木挽町と言われたこの地で随一の名料亭と称された「花蝶」が、素晴らしい造作はそのままに、料亭スタイルのレストランに姿を変えていたのである。
案内された部屋には一人の客だけで、もしかして値段を一桁間違えたのかと心配になったが、どうやら間違いはなさそうなので、ビーフシチューを頼むことにした。
料亭気分を味わいながら、こんな値段で美味しい食事が出来るのだから有難い。



それにしても時代は変わったものである。
偶然にも、つい数日前に知人から依頼されて、これまた有名な料亭が店を閉じることになり、その美術品や道具類の整理を頼まれたばかりである。
料亭政治や官官接待の時代が終わり、多くの料亭が立ち行かなくなっているのだろう。
贅沢と言えば贅沢なことだが、日本の伝統的な文化もこうして一つ一つ幕を閉じていくのだろうか。
花蝶のように姿・形が残っていればいいが、多くの残された襖画、屏風や掛け軸、道具類と言ったものも、料亭だけでなく、日本家屋がどんどんマンションに姿を変えていく時代にあって、どこにその受け皿を探したらいいのだろうか。
難しい時代になったものである。

1月25日

新聞社主催の次世代若手作家を紹介する展覧会の第2次選考会があって出かけた。
写真選考による1次審査を通過した61点の中から半分の30点が選ばれることになっている。
コミカル風や写実風など今の流行を追うのではなく、自分独自のスタイルを模索しようとしている作家に高い得点を与えようと臨んだが、意外とそうした作風が少ないので安心した。
昨年も同じ機会を与えられ、その中から二人の作家の個展を今年企画することになったが、今年はそうした展覧会をしてみたいと思う作家に出会えなかったのが少し残念ではあったが。

1月24日

今朝は一面銀世界。
昨日の雨が夜から雪に変わり、東京では初積雪となった。
雪はやんだが、溶けた雪が凍りつき、向かいの坂道では転ぶ人が多く 危なかしくって見てられない。
すぐ目の前に交番があるのにお巡りさんは知らん振りなので、雪かきするとか、回り道させるとか、何とかしないと怪我人が出てからでは遅いよと言うと、そうでしたとようやく腰を上げた。
周りはみんな雪かきしているのだから気がつきそうなものだが。
ここの交番は、ついこの前までの落ち葉が散る頃にも、そこだけ落ち葉かきをしないので、目の前ぐらい掃除したらと思っていたが、駐車違反や信号を渡る人には目を光らしているのに、どうしてこういうことに気がつかないのだろう。
小言じじいと言われそうだが、こういうことには腹が立つ。

ここ数日の悪天候と寒さで画廊に来る人も少なく、折角頑張ってくれた堀込の作品も多くの人に見てもらえないのが残念である。
見てくれた人にはとても評判がよく、評論家や学芸員の方が褒めてくれるのが救いである。
中には、若手では第一人者と言ってくれる方もいて、うれしい限りである。
以前のように大作が殆ど売れると言うことはないが、それでも100号の大作など数点が売約となり、この時期としては良しとしなくてはいけないのだろう。

1月23日

昼から又冷たい雨が降っている。

今日は母の命日で昨日一周忌の法要を済ませた。
母が住んでた家には息子夫婦が住むことになり、遺品の整理を急いでやらなくてはいけない。
これが大変で、洋服や着物、靴から食器、家具、書籍など、昔の人間だけに捨てることをしなかったから、山のようにある。
包装紙や、紙袋、ひもの類まで取ってあるから、収拾がつかない。
アルバムや手紙類は捨てるしかないが、穴窯まで造って制作していた陶器や毛筆で書いていた日記類も大量にあって、これは捨てるわけにもいかず、さてどうしたものかと悩んでいる。
着物や毛皮やアクセサリーなどはいくらにもならないし、かえって処分代を取られてしまう。
残された者が大変だから、身辺の整理は早めにしなくてはいけないと家内と話していたら、早速に私が長い間に録画をした1000本近くある映画のビデオを捨てられてしまった。
確かに、これだけのものを観ることは先ずないのだから仕方がないが、いざなくなるとなると寂しいものである。
母親もきっと寂しい思いをしているに違いない。

自分のところもそうだが、今月中に2件の美術品の処分を頼まれていて、こちらも大量にあって、さてどこから手をつけていいか、これも悩みの種である。
私の家のように十把一からげというわけにはいかず、丁寧に査定をしてあげようと思う。

1月20日

長い間雨が降らず、からからに乾いていた東京だが、夜半から降りだした雨は雪に変わり、寒い朝を迎えた。
久し振りのお湿りは有難いが、雪は困る。

ようやく写真のアップのやり方をマスターして、日記にも画像を添付することが出来るようになった。
以前は無償で私共のHPをアップしてくれる方がいて、無理をお願いしていたが、事情があってそうも行かなくなった。
スタッフも忙しくて私の方には手が廻らず、画像無しのブログがしばらく続いたが、ようやくスタッフが教えてくれることになり、何とか一人立ちすることができた。
昨夜、四苦八苦の末に以前の日記にいくつか無事アップすることも出来た。

今日は早速に向かいの建築中のビルの完成予想図を写真にとってアップすることにした。
今から完成を楽しみにしているが、このビルが出来ることで、新たな街づくりを近隣にも提言し、できれば文化ゾーンとしての街づくりを目指してみたい。
その前に私が今いるビルから追い出されないことが先決だが。



1月19日

また山本冬彦氏のブログからの転載だが、常々思っていることなので、我が意を得たりということで紹介をさせていただく。

鹿島茂著「尽王、パリをゆく」(新潮選書)

日本のお金持ちにももっと芸術文化のパトロンになって欲しいものだが、この本はかつて実業家の3代目で己の美学に基づきお金を「消費」することで自分の生活、人生そのものを「芸術」にした薩摩治郎八の伝記だ。
薩摩治郎八(1901年〜1976年)は白州次郎のように有名ではないが、パリの日本館建設に私財を投じたり、画家の藤田や声楽家の藤原義江などのパトロンにもなった人で、パリの社交界で有名だった日本人だ。

戦前の日本でそれなりに文化が育ったのは、教養ある富裕層が「ノーブレス・オブリージュ」で上手なお金の使い方をしていたから。
戦後日本の税制は、多大な個人資産を持つことを許さないうえ、海外のように文化貢献や寄付を奨励する優遇策もないからだ。
そんなことを考えるためにも是非この本を読んでいただきたい。
著者の鹿島氏は美術館でコレクション展をやるような文化芸術に理解のある人だ。

1月18日

月曜日は日本版画商協同組合の初例会。
毎年恒例の新春講話は、いつも各界から講師を呼んでお話をしていただくが、今回は私たちにお鉢が廻ってきて、「最近のアートフェアー事情」と題して、私を含め文京の夫馬氏、グラフィカの栗田氏、ベースの大西氏の4名で話をさせていただくことになった。
時間が限られていて、前もって出されていた設問に僅かしか触れることが出来ず、多少消化不良気味は否めなかった。
時期が時期だけに、みなさんアートフェアーへの限界も感じているようで、前向きな発言が聞かれることはなかった。
私も同じような思いはあるが、今後の新たな展開に期待するところもあって、若干思いは違っていた。
ただ海外にシフトをし過ぎると、国内での新たなマーケットの展開がおろそかのなってしまうので、バランスをとりながら進めていくことの必要性を、皆さんの言葉からもうかがい知る事が出来た。
今年の4月にはシンガポールに小山や大田など数軒の日本の画廊が支店を出すような話も聞こえてきて、アジアにシフトする画廊もあれば、一歩退く画廊もあって、アジア戦略も押しなべてとは行かず、混迷の時代といっていいかもしれない。

1月17日

山本冬彦さんのブログに朝日新聞の村上隆のコメントが引用されていたので、転載をさせていただく。
昨今の状況に萎え気味だった気持ちが鼓舞されたような思いである。

村上隆にあこがれる人は多いと思うが、彼のような戦略と思想を持った上で戦っている人はどれだけいるのだろうか?
芸術文化に関わる人は、是非、全文を読んで欲しい。ラディカルに考え、無力であっても、変えていく気概をもちたい。「ゆるく」「迎合している」だけのアートは無益であるだけでなく「有害」です。これは村上隆のアートが好きか、嫌いかとは別のことです。

【今朝の朝日新聞より】

主体性を持って、社会を変えていかなければならない。一芸術家としても行動を起こすべき。そうした活動を通じて人々を目覚めさせるのが、ぼくら芸術家の仕事なんです。芸術ごときで世の中は変わらない。芸術なんてこの現代社会の中では無能、無意味です。だけど、やり続けるしかない。
ぼくらがもだえ苦しみながら活動している姿を見て、鼓舞され勇気づけられる人たちが絶対いるはずだから。
『クール・ジャパン』なんて外国では誰も言っていません。うそ、流言です。美術大学も、学生がお客さんになってしまい先生は学生に迎合し、独りよがりで幼稚な学生ばかり。先鋭的なものは何も生まれてこない。行政が街おこしにアートを利用するから、アーティストも結構らくにやっていけるので無根拠にもの作りを推奨しすぎる。ぬるい。

先日、ジャカルタに行った折に出会った田中a氏の言葉が思い出される。
「今の若いアーティストはあまりに受身過ぎる。
じっと待っていても何も起こらない。
自分で打って出るべきだと。」
苦労して前衛舞踏でヨーロッパで高い評価を得ることができた氏の言葉だけに重みがある。

1月15日

オペラシティーアートギャラリーの「難波田史男の15年」のオープニングに行ってきた。
史男は32歳の短い生涯の間に2000点の作品を描き残した。
今回はその中から寺田コレクション、国立近代美術館、世田谷美術館等の作品250点が並べられた。
70年安保の騒然とした時代に、多感な史男はその苦悩を絵筆に託し、青春を駆け抜けていった。
色彩は愛だといった史男の言葉通り、その表現は愛と優しさに満ち、描かれた人々は生き生きと躍動をしている。
私には苦悩のかけらも見えないのだが、苦しみや挫折を愛に満ちた絵で打ち消していたのだろう。
海や太陽への憧憬も、現実からの逃避だったのかもしれない。
彼の詩に「海を見つめていると、海で死んだ人たちを思い、自分も海で死ぬこととへの憧憬をおぼえる。」という一篇がある。
九州旅行の帰路、船から転落して短い生涯を閉じたが、描いた作品のように美しい海に全ての苦悩を包み込み、海底に静かに身を横たえたのだろう。

私も史男の作品を数十点集め、展覧会もしたことがあるが、今改めて作品の美しさに感銘を覚えた。
必見の展覧会である。

1月14日

今日から堀込幸枝展が始まった。
透き通るような美しいマティエールと浮遊感が心に安らぎを与えてくれる。
3回目の発表だが、色彩も多彩となり、今までとは一味違った表現となった。
サブカルチャー全盛でマティエールとか物質感といったものが見逃されがちだが、油絵の具がこれほど美しいものだということを実感していただきたい。


1月13日

寒空の中、新年会が続く。
飲めないこともあって、忘年会は不義理することが多いが、新年早々はそうも行かず、このところ連日である。
美味しい料理でついつい食べ過ぎてしまい、体重計に乗るのが怖い。
一昨日行った麻布の「分けとく山」の料理は格別に美味しかった。
隈研吾設計のお店で、日本料理の名店の一つにあげられるだけあって、どの料理も美味でもう一度行きたい店である。
ただ値段が問題だが。
ここの隣りに「ギャラリー華」という画廊があるが、独立美術の吉武研司さんの展覧会をよくやっていて、何度か行ったことがある。
都心には珍しい広い庭のある画廊で、「分けとく山」もその敷地内にあるというから、このあたりの大地主さんなのだろう。
入り口横には10数名の作家による壁画があり、春には枝垂桜が来る人を迎えるという洒落たギャラリーである。
時には庭でのガーデンパーティーもあるようで、「分けとく山」の料理も楽しめるというから、うらやましい限りである。

1月12日

私の画廊の斜め前に銀座にあったギャラリーなつかが移転をしてきて、2日前にオープンをした。
再開発で周辺の多くの画廊が移転してしまい、寂しい思いをしていただけに、一軒でも近くに画廊が出来るのはうれしいことである。
暮れには私共のビルにあった会社が移転してしまい、大きなビルに私のところ一軒だけになってしまい、余計に画廊がそばに来てくれたのはありがたい。
前にも書いたが、大家さんも是非画廊に使って欲しいとの意向なので、新規もしくは移転の予定がある画廊さんは検討をしていただきたい。
隣りの新築ビルの工事もどんどんと進み、まるで積み木細工のようにフロアーが積み重なって上へ上へと伸びていく。
このビルの完成予想図も張り出されていて、ビルの周りを豊かな緑が囲み、都会のオアシスのような場所になるみたいで、来年春の完成が待ち遠しい。

1月10日

あけましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりありがとうございました。
今年も皆様の心に響くような展覧会を開催してまいりますので、ご支援のほどよろしくお願い申し上げます。

長い休みだったが、仕事を離れ、のんびりと過ごさせてもらった。
昨日の成人の日は友人に誘われ、高尾山へ行ってきた。
ミシュラン効果で大勢の人で賑わうようになったそうだが、昨日も多くの人が詰めかけていた。
京王電鉄から京王プラザホテルの社長を務め、現在相談役のT氏も同行したが、電鉄も思わぬ効果でホクホクとのことであった。
友人の会社の山ガールがたくさん来るとの言葉につられて参加したのだが、3名の参加で肩透かし。
代わりに、不純な動機を心配した我が家の山ん婆が参加し、彩りを添えることになった?
行きは初心者コースということもあって、毎朝のウォーキングで鍛えた健脚振りを発揮したが、帰りの沢下りコースが曲者で、傾斜がきつく、朝起きると久し振りの筋肉痛。
行く前に、娘から高尾山をなめてはいけないよとの言葉が身にしみた。
それでも山頂での絶景と、東大山岳部で鳴らした建築家のI氏が用意した暖かいおでんと途中で飲ましてくれた熱いココアの甘さが、身も心も温めてくれて、登山の醍醐味はここにありを実感することが出来た。
次なる雪原のハイキングの呼びかけにも、今度は間違いなく来るという大勢の山ガールに期待をして、参加の約束をすることになった。

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