ギャラリー日記 Diary

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1月7日

明けましておめでとうございます。

本年も皆様のご期待に添えるような展覧会を企画してまいりますのでご支援の程よろしくお願いいたします。
5日まで家を留守にしていたこともあり、家にたまった年賀状と画廊に来た年賀状を見ているうちに一日が終わってしまった。
年賀状の楽しみの一つに作家さんから届く手作りの年賀状がある。
以前に比べると皆さん忙しくなったせいか数は少なくなってしまったが、それでも必ず忙しい時間を割いて送って下さる方たちには頭が下がる。
こうした年賀状は毎年ファイルしてあり、いずれ正月の企画で画廊にならべて見たいと思っているのだが。
今年の年賀状の中に作家の方からではないのだが、あっやられたという年賀状があった。
昨年暮れに日記にも書いた私どもの画廊のロゴマークを作ってくれた望月通陽さんの羊の彫刻を使った年賀状がある画廊から送られてきた。
洒落た年賀状で望月さんの羊の彫刻が年の初めにふさわしく、神々しく輝いて見えた。
灯台下暗しで12年に一度しかない羊の年に私どもで開廊以来展覧会を重ね、それも羊のロゴマークまで作ってくれた望月さんの羊の作品を何故使わなかったかと悔やまれる。
と言うのも望月さんの染めにしても、彫刻にしても羊の作品は数多くあり、新潮社から出た作品集のタイトルまでもが「円周の羊」となっているぐらいで、何とも手抜かりであった。
そんな訳で急遽この日記で望月さんの羊の作品を並べて年頭の挨拶に代えさせていただくことにした。



温室

汀まで

サウロの羊

羊は前にも書いたように美の神であり、美は羊の字からなっているが、他にも善であったり、正義の義、羨望の羨などとてもいい字に使われている。
今年がひときわ美しく善い年であるように願う。

1月16日

先日、新宿にある百貨店の美術部を訪ねてきた。
ここの美術部に私どものお客様でもあり、ご自分のコレクション展も何度か開いているM氏が配属されてきた。
今までは、外商部にいて仕事の合間をみては画廊廻りをしていたのだが、まさか本人が絵を売る側に廻るとは思ってもみなかった事だろう。
M氏は展覧会を見る傍ら美術機関紙に美術批評などを寄稿し、クラシック音楽や俳諧にも造詣の深い教養豊かな方で、コレクションにもかなりこだわりを持っている。
特に小貫政之助のファンでその思い入れは自他ともに認めるところである。
小貫は1988年63歳で亡くなっているが決して世に知れた作家ではなかった。すべての組織や団体行動から離れ弧絶と言う自由を選び、一切の情報を拒絶し制作を続けた作家であった。
M氏の思いは実り、1992年小田急美術館で回顧展が開催され、「業と魔性のポエジー」と題された作品集も出版され大きな反響を呼んだ。
私どもでも同じ時期に遺作展をご遺族の協力で開く事が出来、その時の事が懐かしく思い出される。
その時の案内状の絵が下記の写真だが、縁あって今私の画廊に戻ってきている。


小貫政之助 「女 No.10」 39.5×27.4cm ミクストメディア 1963年 ¥600,000.-

百貨店の美術部というのはどうしても絵好きな人向きと言うよりは、お店や家庭のインテリア、贈答用、企業の応接間向きと言った作品を扱う事が多い。
そこへこだわりのコレクターであるM氏が担当する事になったのだから皮肉なものである。
そのM氏が折り入って私に相談と言う事で、久し振りにその百貨店を訪ねる事となった。
M氏は一般受けするような企画だけではなく新しい企画も考えていきたい、そのためには私どもの作家の展覧会をここで出来ないだろうかという話である。
目の前の展覧会が偶々有名演歌歌手の個展であったためにためらいもあったが、デパートというオープンな場所で私のところの作家との出会いが少しでもあればと考えていた時なので、喜んでお引き受けする事にした。
幸い美術部の上司の方たちも私どもの企画には興味を持っていただいたようだが、あくまで数字が至上命令である以上画廊のようにのんびりしている訳にもいかず、M氏がリストラの憂き目に遭わないよう私の責任は重大である。

1月24日

 年の初めに年賀状の事を書いたが、何と我が家に来た年賀状の一枚が二等賞のお年玉に当たっていた。
いくつか賞品がある中からデジカメをもらう事にした。
去年の暮から運が廻ってきたのか立て続けにこうした賞品をもらう事が多く、まだ見ていないジャンボ宝くじももしかすると。
暗い話題が世間では多い中我が家にとっては新春早々縁起のいい事である。

画廊もいい年になってくれるといいのだがと祈りつつ、今週から山本麻友香展が始まったがまだ見にくる人が少ない。
初期の作品から新作まで60点近くを並べており、まだ三十代の彼女だが年毎に変わっていく表現の変遷を見ることが出来、見ごたえのある展覧会になっている。
彼女との出会いは偶々見た案内状であった。
私の場合、大抵がそうなのだが飛び込んできた案内状を見て、直感的にこの人の展覧会をやってみたいと思うことが多い。
その展覧会場が何と私の画廊のまん前だから縁とは不思議なものである。
作品をいち早く見たくて、展示の日にその画廊で待ち構えていたが期待にたがわずどの作品も銅板画とは思えない強烈なインパクトがあり、早速に次の展覧会を私のところでと申し出た。
彼女も会場を借りての初個展であり、そこにいきなり企画の話なので驚いた事だろう。
後で聞いてみると、とにかく飾り付けを早くしたいのに、変なおじさんが絵の前をうろうろしていて邪魔でしょうがなかったそうである。

 こうした事から私の画廊で展覧会をやるようになって今回で七回目になる。
去年には子供が生まれ、作品も母親の心の揺れを表現するような作風に変わってきた。

僅かな間にこれだけ多様化していくことにそのエネルギーと限りない才能を感じ、どこまで行ってしまうのか彼女との年の隔たりを感じながらも最後まで見届けてみたい気がする。

1月28日

 この日記でも紹介をしたコレクターの方を含め絵好き人間が集まり、「アートNPO推進ネットワーク」と言う組織が立ち上がる事になり、その設立総会に出席しお手伝いをさせていただく事になった。
基本姿勢は美しいものを美しいと感じることが出来る心の贅沢と豊かな日常性の実現にあり、芸術文化、特にアートのある市民生活の実現を支援するというもので、NPO型のアート活動による社会貢献をしていこうというものである。
活動の中核を担うのは純粋なアート好きコレクターの方たちで、そこに福祉事業にたずさわる方や他のNPO活動をされている方が集まり構成されている。
私達画廊関係者も何人か参加する事になっているが、非営利事業であるため誤解を招かないよう個人レベルで参加をし、側面から協力させていただく事にした。
最近になってコレクターの方たちが積極的にコレクション展を開くなど、美術の裾野を広げようと頑張っている姿を拝見し、日々に追われる私達も反省とともに触発されるものがあり、営利を離れてこうしたアート草の根運動に参加をする事にした。
まだまだ資金も足りず、人手も足りないよちよち歩きの組織だがその志は大きく、大いに期待をしている。
活動内容についても逐次日記やホームページで紹介していくつもりだが、こうした活動に関心のある方は下記にアクセスをしていただきたい。
まだ正式なホームページではなく、代表者のホームページ「壷中夢倶楽部」に間借りしている状況だが概要はおわかりいただけると思う。

URL:http://www.kochu-yume.com

2月5日

春は名のみの風の寒さやと立春を過ぎても寒さが身にこたえます。
週始めにはそのせいか体調を崩して、危うく寝込む所を何とか気合で持ちこたえました。
インフルエンザも大流行のようで高熱で寝込んだ知人も多く、皆さんもうがい手洗いを励行して寝込まないように気をつけてください。
前回NPOの話を書いたが、月刊ギャラリーでも「アート草の根運動」というタイトルでコレクターやギャラリーオーナーによる美術愛好家グループの運動を紹介している。
こうした話になるとユーザーサイドに立ったアート活動の草分けとも言えるY氏を紹介しないわけにはいかない。
大手損保の部長をしているY氏は無名の若手作家の作品を数多く収集する事で作家にエールを送り、またそうしたコレクションを公開する事で美術愛好家の輪を広げてきた私達のような恵まれない画廊や作家にとってはマザーテレサかキング牧師のようなお方である。
有名な画家の作品や美術史に残るような書画骨董を手に入れる事は多分お金さえあれば可能である。
名もない作家の作品を買うには、作品を見極める眼力と応援してあげようという心意気と一寸ばかしの度胸がいる。
見極めるといっても難しい事ではなく、自分の眼を信じることである。
ある企業家がオークションでゴッホの代表作を史上最高値で落札し棺桶に入れてくれと言って世間の顰蹙をかったが、時代を遡り、その何千萬分の一の僅かなお金で生前の名もないゴッホの作品を手に入れ墓場まで持っていきたいと言ったとしたら後日世間は大拍手をしたかもしれない。
Y氏は多くのメディアにも登場し、サラリーマンの立場から飲む誘いを一度断る、ゴルフの回数を一回減らしてみる、タクシーに乗るところを電車にするといった具合で、そのお金を美術品のコレクションに向け心の豊かさの奨めを世に説いてまわる。
志を持つコレクターはたくさんおられるが、Y氏のように個人メセナと称して消費者サイドにたって美術愛好家の育成、マーケットの活性化に努力、実践をされている方はまずいないであろう。
Y氏のコレクションの話については今日だけではとても紹介しきれないので、後日あらためて紹介をしたい。

2月14日

偶然にも前回ゴッホの話に触れたところ、作者不詳で1万円の価格でオークションに出品された作品がゴッホである事が分かり66百万円で落札され、新聞やテレビで大きく報じられ話題になった。
私もオークション会社に関係しているので、この件は大変関心を持って見守っていた。
私の手元にオークション開札の3日前にゴッホの真筆である事が確認された旨のFAXが入り、これは大騒ぎになるに違いないし、オークション会社にとっては千載一遇の宣伝のチャンスになるだろうと画廊のスタッフにも話していた。
案の定、会場には多数のマスコミとともに行列するほどのたくさんのお客さんが殺到し大混乱となったようだ。
落札した方は以前にも岸田劉生の麗子像を4億円近い価格で落とし話題を読んだコレクターだが、恐らく世間は金額には驚いても、岸田劉生を多くの一般の方が知っているとは思えず、ご自分の美術館に展示しても金額に見合うほどの宣伝効果は得られてはいない筈である。
しかし今回のゴッホとなると修復がかなりされているとか、とてもそんな価格はしないとか取り沙汰されてはいるが、1万円が66百万円になったと言う話題性とゴッホと言う名前は金額には代えられない大きな宣伝効果となるのは間違いなく、この作品が展示される美術館には大勢の来場者が訪れるはずで、落札した方にとっては何よりの買い物となったのではないだろうか。
ところで話を戻すが、もしこの作品がゴッホと確定する事が出来ずに作者不詳のまま出品されたとするとどのくらいの価格がついたのだろうか。
絵の中身は少しも違わずに名前があるかないかで此処まで価格が違う所に美術品の価値観の摩訶不思議さがある。
もっとも今回同時にゴッホと特定できず作者不詳のまま出品された作品も17百万円で落札されたそうだが、作品そのものにそれだけの価値をつけたのか、2匹目のドジョウを狙ったのかは定かではないが、どちらにしても美術品の価格のあり方を今一度考えさせられる出来事であった。

2月25日

パリ在住の日本人画家・高橋功氏の紹介で、同じくパリに在住のチェコ人画家・ムッシャさんが、先週の金曜日に私を訪ねてきた。
前の週にも私の留守に画廊を訪れ、資料を置いていってくれたのだが、その時置いていったカタログを見て驚いた。
どの作品も私の好みにぴったりで、久し振りに心がときめいた。
よくぞ紹介をしてくれたと高橋氏に感謝しつつ、今一度訪ねてくれるのを楽しみに待っていたところ、リヨンの画廊オーナー・マチュー女史を連れて訪ねてきてくれた。
小品のタブローやドローイング゛、エッチングなどを見せてもらったが、どれも情緒感の溢れる、どちらかと言うと日本的な微妙な色彩表現をした作風で、モランディーにも似た色合いとマチエールを持っている。
テーマは家や石、木といった形をシンプルに描いているのだが、俳句のように凝縮した中に大きな宇宙を表出しているように感じた。
早速来年の5月に展覧会を開催することを決め、念願の日本での発表ということで、彼も大いに喜んでくれた。
二人は帰国前に、近くの温泉に行って露天風呂に入りたいとのこと、それならばと私の小さい家がある河口湖に案内することにした。
露天風呂につかりながら、冬の富士山を眺めるのも一興と思ったのだが、あいにく日曜は曇り空、月曜も雪になってしまい富士山は見えずじまいで、楽しみは来年まで取っておくことにした。
それでも露天風呂には大満足の様子で、着物・辻ヶ花の美術館を見たり、夜には古い藁葺き屋根の家で囲炉裏を囲みながらの夕食と、二人共、日本人になりたいと言わせるほどの大感激ぶりであった。
露天風呂や囲炉裏の前で暫し瞑想するムッシャさんを見て、野武士の風貌の彼の方が、私よりよほどその場に相応しいように思えてならなかった。
何らかのイメージを膨らまし、ムッシャさんは来年の作品の構想に頭を巡らしていたのだろう。
日本でどのような作品を見せてくれるか、今からその日が待ち遠しい。

作家名  Miloslav MOUCHA
 
Mon atelier 140×120p 2001年
Rue Belle-Air U 42×38p 2001年
Miloslav MOUCHA

2月28日

望月通陽展も今週末で終了。
今回は昨年夏にイタリアのチェルタルドという古い町で開催した展覧会を再現しようとの企画で、大作を中心に空間をいかしたとてもいい雰囲気の会場構成となった。
イタリアではチェルタルドの丘に立つ古いカテドラルが展覧会場だったが、写真のように石造りのいかにも中世といった建物で、日本の鎌倉時代に出来た建物で歴史の重みが壁にも床にも天井にも滲み出ていて、この重みだけは20年の歴史の我が画廊ではとても再現できそうにもない。

望月さんの展覧会も今年で12回目となるが、最初に出会ったときはまだ彼が20代の時だった。
静岡のコレクターとして知られるO先生の紹介で会う事になったが、今でもそうなのだがとてつもない照れ屋で汗一杯かきながら話をしてくれた事が思い出される。
その後暫くしてアトリエを訪ねることになり、彼から道順を書いた地図が送られてきた。
地図といっても静岡市街大絵図面と言ったほうがいいくらい大げさなもので、大きな和紙に私が車で行くという事もあって東名高速の出口からアトリエまで道々のお店までが一軒一軒丁寧に書きこんであり、主要な目印までの所要時間まで書き込まれているではないか。
時間を見ると東名を降りてから1時間半ほどかかるように書いてあって、街中からはだいぶ遠いように思って出かけたのだが、どうも目印があっと言う間に過ぎてしまうので不思議な気がしつつも車を進めていると、地図の道がなんと工事中で行き止まりになってしまったのである。結局他の道にはいって迷ってしまい迎えに来てもらう羽目になった。
これだけ細かく書いてもらいながらたどり着けない自分も情けないが、丁寧にその道一本だけを細かく書いた望月さんもなかなかのものである。
後で聞いてみると、彼は自転車で東名まで向かい、そこから一軒一軒確かめながら地図を書いたらしい。
それで時間も車ではなく、自転車の所要時間を書いてしまったようだ。
なるほど通りすぎるのが早いはずである
アトリエは染料の色が染み付いたのか黒茶けた天井の高い建物で、壁の板の間に新聞紙があちこちと詰め込まれている。
新聞紙を詰めると仕事に何か役に立つ事でもあるのかと聞いたところ、彼は言いにくそうに、実は来てもらうのが2月の寒い日なので隙間だらけの仕事場では寒くてたまらないだろうからと、夜遅くまでかかって梯子を架けて板の隙間に新聞紙を詰めておいてくれたのである。
静岡とは言え、寒い時は机に置いた仕事で濡れた手がそのまま張り付いてしまう事もあるくらい冷え込む時があるそうだ。
こうして初めてのアトリエ訪問は精一杯の望月さんの心配りから始まった。
そして初めての展覧会を開き散々な目に会うのだがその話しは次の機会に。

3月7日

岩手県にある萬鉄五郎記念美術館で開催された小原馨展が3月2日に終了した。
見に行く予定でいたのだが、あいにく時間の都合で行く事が出来なかった。
1990年以来私の画廊で7回の個展を重ね、そのたびに大きく変遷を遂げ、その時間の流れと作品の変化を一同に見るのを楽しみにしていただけに残念であった。
小原さんの仕事は紙を主体とした素材を使い自己と外とのかかわりをテーマに制作し、年々その造作表現を展開させてきた。

子供の情景 <夕暮れの路> 1990 界-84 2001

この美術館では岩手出身の現代作家の中から、特色ある活動を繰り広げている作家をシリーズで紹介しているが、今年度は「子供の時間」をキーワードに子供達と美術の関わりを考えようと言う事で、子供との接点のある小原さんの作品展が企画された。
小原さんは武蔵野美術大学を卒業後、盲学校で視覚障害の子供達に美術を教え、
その後は聾学校で聴覚障害児童に美術の指導をしてきた。
眼の見えない子供達にあるものを落とし、その音を聴いてそのイメージを絵にしてもらうような事をやってますよとの話しを聞いたことがある。
色も形も認識できない子供達に音のイメージだけで絵を描かせる事の難しさは並大抵ではないだろうが、自分の感覚だけで創造をしていく事は美術の原点なのかもしれない。
ノーベル賞の江崎玲於奈博士が「文化には二つの相対する文化があり、過去の情報、知識を集め、分別力を働かせて真似る文化と創造力を働かせ新しいものを目指す自由な文化がある」と言っておりますが、美術には過去や現実に囚われない自由な発想が必要で、子供達の自由な想像力で描かれた絵に小原さんは大いに影響を受けたことだろう。
私の所に小原さんが絵を持って訪ねてきた時も、子供の頃に地面に蝋石で絵を描いたり、釘で土を引っ掻いては消して遊んでいた頃を彷彿とさせるような作品で、何と自由で楽しい絵なんだろうとの印象を持ったものである。
眼の不自由な子供達から触覚による独創的な美の世界を身を持って学んでいた頃であった。
こうした子供や聾唖の子供達から「人間の創造の無限の可能性」を教えてもらった事に心から感謝したいと小原さんもカタログに書いているが、「子供との時間」と言うテーマに相応しいこの展覧会を見た多くの人たちが、自由に描く素晴らしさをきっと体感してくれたに違いない。

3月22日

幻想とエロスのコレクターとして以前に日記にも紹介させていただいたHさんのコレクションの中から数点を、裸婦のコレクターとしてこれまた有名なKさんにお譲りをさせていただく事になった。
H氏美術館のお手伝いをさせていただく事が出来ればと思っていたのだが、Hさんのご子息が次回の衆議院選挙に立候補する事になり、その資金として一部の作品の処分を依頼されたからである。
手離してもいいとされた200点ほどの作品は全てオークションに出品して欲しいとの依頼であったが、主要な作品が散り散りになるのが忍びなく、私どものお客様それぞれにお願いをしてお持ちいただくことにした。
コレクション自体がかなり個性の強い作品ばかりなので、そう簡単に誰にでもお願いをするわけにもいかず時間がかかったが、ようやくその目処もつき、Kさんをはじめこだわりのコレクターに納まる事になった。
Kさんは大手電気メーカーでコンピューター関係のお仕事をされているサラリーマンコレクターだが、そのコレクションのこだわり度はH氏に匹敵する。
裸婦のコレクションといっても生半可ではなく、エロティシズムの極限を描いた作品がその大半を占める。
そうしたコレクションではキャバレー王の福富コレクションが有名だが、若いサラリーマンのKさんにとってはなけなしの給料でコレクションをしなくてはならず、とても福富コレクションにかなう訳はないのだが、それにしては良くぞ此処までと言う徹底したコレクションで占められている。
よくポルノと芸術との境で論争が交わされるが、そのぎりぎりの所にあって女性そのものの美を追求していった作品ばかりで、世の男性には興味津々の作品と言ったらKさんにふざけるなと怒られるかもしれない。

以前に私どもの画廊でK氏コレクション展を開催した事があるが、若いサラリーマンコレクターがこれほどの徹底したコレクションをしたことで大きな反響を呼んだが、それからだいぶ時間も経過し内容も更に充実してきたので、もう一度今回の作品を含めたコレクション展をやってみたいと思っている。
その中には油彩画や版画だけではなく、私も見たことのない写真のコレクションもかなりの数があるようで、画廊主の立場を逸脱してでもそうした機会に是非とも見せてもらいたいと思っている。
H氏からK氏へと移って行く事で美術品が埋没していくのではなく、新たな人の手によってその作品が活かされていく事を知ってもらいたいとの思いもある。
いつの世でもこうして美術品は受け継がれ文化として残っていく。

3月26日

美術コレクターではないが、私の高校時代の友人で面白いコレクションをしているT君を紹介したい。
彼は銀行マンだったが大手証券会社に移り、そこの常務として激動の日本経済の最前線で活躍をしている。
高校時代は我が高校のラグビー部のキャプテンとして花園の全国大会にも出場したスポーツマンで、それはそれは格好のいい花形ラガーマンであった。
私が属していたヨット部も国体や全国大会に出場したが、東京には高校でヨット部のあるところは4校しかなく、三つの高校に勝てば東京代表になれたのだからあまり威張れたものではないが、ラグビー部は東京に全国大会で優勝するような高校が何校かあり、その激戦区を勝ち抜いて行ったのだからたいしたものである。
会社が画廊に近い事もあり、最近はよく画廊に顔を出し美術品にも興味を示してくれるようになったが、彼には美術品どころではない大変なコレクションがある。
彼は銀行時代にロンドン支店長として長い間イギリスに赴任をしており、その時釣りの世界にはまってしまった。
ルアーとかフライといった優雅かつスポーツ性の高いイギリス流フィッシングで、こうした趣味の人たちは当然道具にも凝るわけで、やれ何処の竿がいいとか疑似餌はどうのとか釣る魚以上に道具や仕掛けばかりを集めてしまうものだが、T君は何とリールを集めだしたのである。
集めると言っても半端ではなく、使えるものだけではなく骨董的価値のあるリールを集めだしたのである。
こうしたコレクターは日本ではあまり聞かないが、本場イギリスにはたくさんいるようでサザビィーやクリスティーズのオークションでもこうした物の売り立てがしばしば行われているらしい。
こうしたオークションでは高いものは一千万円を超える物もあるようで、彼も高いのは七百万円くらいで落札したものがあるようだ。
たかがリールされどリールである。
こうして集めも集めたりその数は八百点近くになるそうだ。
19世紀隆盛を誇ったイギリス海軍が遭難した時のサバイバル用に作ったリール、ベトナム戦争で負傷した人のために作った、本来は全て手動でなくてはいけないのだが、そうした不自由な人のための電動式リールなどそれぞれリールには時代背景があり、そうした歴史の中で文化として残っていった物だそうだ。
何百点も美術品を集めるコレクターにはそれほど驚かないが、リールとなると私もただ吃驚するだけである。
同じ高校の同級生で歯医者をしているS君には長い事会っていないが、かれはナイフのコレクターとして日本だけではなく海外にまでその名を知られている。
立場を変えるとそれぞれにつわものがたくさんいて、その世界以外の人間にとっては何の役にも立たないと思われる物でも、こういう人たちの手によって文化は守られ継承されていくのである。
例えは少し違うが、友人が雪の降る日ゴルフ場に向かう途中に、釣り場で帽子を雪で白くしながら釣りをしている人を見て、こんな寒いのにどういうつもりなのと思ったそうだが、釣り人もくる途中のゴルフ場で雪の中震えながらクラブを振り回している人を見たら、この雪の中でゴルフをやるなんて気が知れないと思うだろう。
好きな道は人それぞれである。

3月31日

コイズミアヤさんの展覧会が始まって一週間が過ぎた。
今回の彼女の作品は今までの作風とは全く違い、プリミティブな柔らかい作品に大きく変貌し、その詩的な世界が見る人の心を捉えるのか、熱心に見てくれる人が多い。

会場構成も前回の望月展同様に心地よい空間となっていて、望月さんを始め心温まるナイ―フな作品を中心にコレクションされているTさんから次のようなメールをいただいた。

コイズミさんの作品展、とてもよかったです。
作品は、確かな技術とコイズミさんの内面がそのままストレ−トに表現されていたように思います。
頭で考え付いてもそれを表現するのは並大抵ではないですよね。
それと、作品たちを浮き立たせたシンプルな展示も良かったと思います。
どこか不思議な世界へ連れて行ってくれました。
気に入った作品を手に入れた時、いつも感じる充実感と特に今日は”癒し”の気配を感じながらハンドルを握っていました。

うれしいメールをいただき感激一入である。
作品が大きく変わった時、大抵は以前の作品が良かったと言われることが多い。
最初は比較するものがなく新鮮に受け止める事が出来るが、次からはどうしても最初のときめきがある分だけインパクトが弱くなってしまう。
変わらなければ変わらないでマンネリと言われ、作者はそうした外からの声に随分と悩まされるのだが、本人が必然的に変わっていくのを私はじっくりと見守っていきたい。
終わりや完結のない仕事だけに最後まで見届けた上で判断すべきと思っている。
今回、彼女は子供を産んだ事で心的、肉体的な繋がりを意識するようになり、
理知的な作風から原始をイメージさせるようなプリミティブな作品に変わっていった。
秋に発表した山本麻友香も母となって作風が大きく変わったが、二人に共通しているのは、より生物に近い感覚を持った事である。
そう思った時に今まで心の中に内在していた表現すべきものがストレートに出てきたに違いない。
男にはわからない本能的な感覚が呼び起こされたのだろう。
偶々二人の若い女性の作家が同じように変わっていく事に驚いたが、同時に母となって更に新たな表現に向かう強さを感ぜずにはいられない。

4月5日

韓国の金さんが画廊に慌しくやって来た。
有楽町の国際フォーラムで開催されている国際アートフェアーNICAFの視察のため来日したのだが、それと合わせ来月開催される韓国でのアートフェアーに日本の画廊を招致するために来日した。
金さんは先ごろ地下鉄で放火火災の遭った韓国第3の都市・大邸の画廊のオーナーであり、一昨年ソウルで開催されたアートフェアーに、私どもで取り扱っている鈴木亘彦展を企画していただき、大変お世話になった方である。
今年度から韓国画廊協会の会長に就任したのだが、エネルギッシュな国民性なのか日本と違いこの会長職に就くには激しい選挙戦があり、それを勝ち抜いてこの要職に就かれた。
当選の知らせでは、画廊協会の選挙結果とは思わず、韓国の大統領選に勝ったと勘違いをするほど興奮したメールが送られてきた。
来月のアートフェアーに日本と中国から一画廊づつ招待をすると言う事で、何故か私の画廊に白羽の矢が立った。
いきなりで吃驚したが、この4月で画廊も21年目を迎える事になり、新な出発になればと参加することにした。
韓国は文化育成に理解があり、毎年大きなアートフェアーが開催されるが、国からかなりの額の補助金が出る。
3年前に開催された光州ヴィエンナーレでは金大中大統領の出身地でもあることから10億円の予算を政府は出してくれたそうである。
また海外のフェアーに参加する時も半分の費用は国が面倒を見てくれるそうでうらやましい限りである。
こうして韓国の作家は海外で発表をする機会が増え、欧米の作家達と一緒に活躍をするようになる。
日本でこのような申請を国や自治体に出しても、利益の出るようなイベント参加にどうして出さなくてはいけないと一蹴されてしまう。
そのように文化に理解のある韓国でもまだまだ日本の作家が紹介される機会は少なく、買ってもらうなどはまだ先の事だろうが、日韓文化交流の一環になればと頑張って行ってこようと思っている。
出品作家も小林裕児さんと金井訓志さんに早速お願いをして内諾を得た。
展覧会報告や韓国美術状況など日記であらためて紹介をさせていただく。

4月11日

日曜日に那須のリゾートホテルに家内と二人で一泊旅行に行ってきた。
モダングラスアートのコレクターとしては恐らく国内ではトップクラスのコレクターであるK夫人の経営するホテルで、35000坪の敷地に最初は僅か6室しかない贅沢なホテルを造ったのだが、あまりの少なさに予約を取ることが殆ど出来ず、数年前にようやく14室を増やしたというなんとも贅沢なホテルである。
仕事でお世話になった関係で会員にさせていただき、今回は会員特別招待という事で訪れる事になった。
ここではホテルにありがちな施設やサービスは何もなく、一流のシェフによるおいしいフランス料理とくつろぎの時間だけが用意されている。
書棚に並ぶド・スタールやバルチュスの画集、タルコフスキーやビスコンティの映画のディスクなどがくつろぎの時間の彩りとなるだけで、自然の中をただひたすら静寂を楽しむだけがここの最上のサービスである。
雑木林を縫うように清流が流れ、その澄んだ水の流れの中をやまめが泳ぎ、川辺には春の訪れを告げるふきのとうが芽吹き、白い一輪草とかたくりの紫の花がその芽を囲むように咲いている。
出掛けの車中から見たまぶしいような満開の桜が春爛漫の華やかさを感じさせてくれたが、ここでの微かな春の風情は静かで優しい季節の訪れを感じさせてくれる。
暫く川沿いを歩き、林を抜けると広い野原に出るのだが、その何もない野原の真中に忽然と露天風呂が現われる。
穴を掘り、大谷石を据え、よしずで囲んだだけの飾り気のない風呂である。
露天風呂につかり、まだ雪の冠る那須の連山を目前に眺めていると、周りに広がる自然と一体となるような開放感とともに、溶けていくような心地よさに身体中が満たされる。
夕、朝の食事もオーベルジュならではの料理ともてなしでこの上ない至福の一刻を堪能させていただいた。
メインの料理は言うに及ばないのだが、その料理に添えられた野菜がなんとも言えない極上のおいしさであった。
朝、散歩がてら敷地の中にある春野菜の畑を訪ねてみた。
きれいに耕された畑の中にハウスがあり、中に入ってみるといかにも美味しい野菜を作っていそうな髭面の背の高い男の人とかわいらしい娘さんが出てきて私達を迎えてくれた。
中山さんという方で早速に特別美味しそうなものをと言って、小指ほどの大きさの人参と大根をとって私達に食べさせてくれた。
これほどに甘い人参やみずみずしい大根を私は食べた事がなかった。
中山さんは輝くような目で私達を見つめながら話してくれた。
いい土にしようと土を食べては改良を重ね、野菜にはいつも優しさと感謝の気持ちで接し、そのうちに野菜たちの笑顔までがわかるようになったという。
中山さんは今どき珍しく読み書きが全く出来ないのだそうだ。
その分、自然の知識をたくさん身に付けたのだろう。
そば打ち、味噌作り、パン焼き、ジャム作り、たくさんの事を熱っぽく教えてくれた。
帰り際、自然とともにあって自分の人生こんなに楽しい事はない、お客さんも生きる事を楽しんで下さいと言われ、その言葉が胸に清々しく残った。
さりげない自然、例えようもない心のこもったもてなしの料理、生き生きと今を楽しむ人に触れ、こんなに素晴らしい旅をプレゼントしてくださったK夫人に感謝しつつ、次は紅葉の頃にご招待が来ないかと図々しい事を考えている。

4月23日

ここ一週間風邪ですっかり体調を崩し、熱でふらふらしながら仕事をしているが矢張りきつい。
毎朝早くからジムに行って身体を鍛え、娘が送ってくれるプロポリスを飲み、酒も煙草もやらず、身体に何一つ悪い事をしてないと思っているのだが、寄る年波には勝てないのか抵抗力の無さ、免疫力の減退を痛感している。
それでもこの間二つのうれしい事があった。
一つは日曜に予定をしていた河口湖のバーべキュー大会が朝からの強い雨でどうしようかと思っていたところ、みんなが集まる昼頃から雨が上がり、見えないとあきらめていた富士山までが雲間から姿を見せ、そろそろ終わりにしようと片付けが済んだ途端にまた雨が降り出すというなんともラッキーなバーベキュー大会となった事である。
このような天気をもたらした普段から行いの良い参加者の顔ぶれは、日本テレビのアナウンサーの井田由美さんとディレクターの立野女史、作家の金井訓志夫妻、斎藤研さん、吉武研二さん、安達博文親子、内田あぐりさんそれに画廊の女性達と私達夫婦である。
多士済済だが、このメンバーは日本テレビの美術番組「美の世界」の出演者がお世話になった井田アナウンサーを囲んで食事をしようと「弓の会」と称して年に一、二度集まっては大騒ぎをしている面々で、今回は富士見と花見をかねて私の家がある河口湖でバーベキューとなった次第である。
天気に恵まれ、野外でのおいしい食事、それに何より美人アナの井田さんと過ごせた楽しい一日で、この時ばかりは風邪のだるさもすっかり吹き飛んでしまった。
仕事をしているとだるいのに、遊んでいるとすっかり元気になってしまう現金な私です。
もう一つは火曜日に名古屋で開かれた交換会(業者だけの下見なしのオークション)で菅創吉の作品に出会い、落札した事である。

画集を開く度に印象に残っていた作品でまさか私の元に来るとは思っても見なかった作品であった。
風邪がひどく行くのを止めようかとさえ思っていたのだが、無理して行った甲斐があった。
先日他の画廊で、私どもでも大変お世話になり、この日記でも紹介したT先生の菅創吉コレクション展が開催され、あらためてその作品の素晴らしさに魅了されたばかりであったから、余計にうれしくその出会いの偶然に驚いている。
早速、若きコレクターのKさんに知らせたところ是非分けて欲しいとの返事をいただいた。
T先生にもとも思ったが、既に名品を数多く持っている先生よりは最近菅創吉に傾倒しているKさんに知らせる事にしたのだが、私同様この作品に出会えたことで大いに感激をしてくれた。
もともとKさんは小浦昇のファンで旧作から新作まで多くの作品をコレクションしているのだが、町田にある菅創吉コレクションを中心にした須藤美術館で菅の作品に出会い虜になってしまったのである。
この須藤美術館の須藤さんも偶々伊豆の池田二十世紀美術館で開催された菅創吉展で作品に出会い、退職金を全て菅作品に換え自宅に美術館まで作ってしまった人である。
菅創吉の作品には人を狂わせる何かがあるのだろう。
若きサラリ−マンのKさんにとっては大きな買い物で、これから資金の算段をしなくてはならず申し訳ない気持ちもあるが、いいコレクションというのは偶然と無理の重なりの中で生まれるような気がしてならない。

4月26日

今日で開催中の篠田教夫展も終了。
今までの私どもに来られるお客様と違う新しい方達がたくさんお見えになり、一様にその技法に感心をして帰っていかれた。
確かに徹底して描かれた写実のため、技術が先に立って絵としての面白みに欠けてしまうと感じたのか、従来のお客様は案内状を見ただけで来られなかった方が多かったようだが、是非見るだけでもいいから来ていただきたかったし、それだけの値打ちがあったように思う。

秋韻
海辺の断崖
孕む手

と言うのも、単なる写実ではなく対象を凝視し尽くした上で篠田さん独自の技法で描かれた作品は、リアリズムを突き抜け、物の本質を抉り出してしまうかのような実存感のある作品となっている。
独特の技法と言うのは、消しゴムを使って消し取る作業を繰り返す事で描いていくのだが、これを言葉で説明するのは難しく、また説明している私でもやり方は判っても、果たしてこれで本当に描く事ができるのだろうかといまだに不思議に思っているくらい、誰にも真似の出来ない独特のやり方なのである。
簡単に説明すれば、先ず水彩で大雑把に下絵を描き、その上から隈なく全体を鉛筆で塗りつぶしてしまい、その黒くなった画面を消しゴムを使って削り落としていくのである。
詳しくは篠田さんの作品に魅入られ、篠田さんアトリエ訪問というホームページまでを作ってしまったのりまきさんのホームページが作家紹介ページからリンクされているのでご覧いただきたい。
また去年の秋、「たけしの誰でもピカソ」に出演し見事グランドチャンピオンになり、ニューヨーク行きの切符を手にしたのだが、その折技法も放映されたので見られた方もいるかもしれない。
その時の審査員で今話題のアーチスト村上隆に小泉首相ではないが感動したと言わしめた作家でもある。
奥さんが働き、専業主夫をしながら何年もかけてただひたすら描き続ける、いや削り続けた結果生まれた作品に村上隆同様、来廊された方は皆一様に感動し見入っていた。
美術は技術より感性と思っていたのだが、篠田さんの技術だけは感性を超えてしまったようだ。

5月1日

まだ風邪が治らず来週からの韓国のアートフェアーも空港で入国拒否にあいそう。
連休の狭間で見にくる人も少なく、特に今日は快晴で木々の緑がまぶしいほどに美しく、地下の画廊でくすぶっているのがもったいないくらいである。
せめて気持ちだけでも清々しくと思い、最近手元に来たサラリーマンコレクターの方達のお話を幾つか紹介したい。
それぞれ日記で紹介をしたサラリーマンコレクターの方達だが、確固たる信念を持って美術品の収集をされている事に深い感銘を覚える。

先ずは、長い間コレクターの会の機関紙「アート・スクエアーの会」に投稿されてきたM氏が仕事の都合で休止する事になり、その締めのお話からの抜粋を紹介したい。

「街角の画廊から」を書き続けて来て、私なりに見えてきたことは、これを、美術を通した時代の証言として書き綴ってみたかった事、つまりアーチストの評価を通じて自らの先見性を問うてみたかったと言う事かと思う。
したがって取り上げたアーチストの殆どが、いま現在著名でない人ばかりであるのはそのためです。
しかし彼らが、彼女らがこの先どのようなアーチストになっているか興味のつきない事であり、後三年は書き続けてその成果を見届けたかった・それが本音であります。
次に、文章にて、若いアーチストの世に初めてであろう展評、寸評を書いて見たかったこと。
マチスやピカソを絶賛評価する事は容易い事です。何故なら世が既に認めているからです。
しかしながらマチスやピカソが判っても眼前にある現代絵画がどのようなものか、どう評価したらいいか判らない人が多すぎます。全く見ようとしない人もいます。
美術の世界においてもブランド志向、教養主義が蔓延っているのは、この国の相も変らぬ風景と言えるでしょう。
美術館の有名展覧会ばかりでなく、時には「街角の画廊」を覗いてみて、思い浮かんだ感想を書いてみるのもいい事です。美術とは有、無名にかかわらず個と個の出会い、その出会いを大切にしてそれが普遍性ある事かどうか文章にして問う事は大変意義ある事だと思います。
また筆者の私はコレクターの、それも貧乏コレクターの視野から書いている事も忘れないで欲しい。
従って(感動したアート・所有したいアート)という観点から書いているので、学芸員や美術評論家の観点・文章とは些かニュアンスを異にしていると思う。
コレクターとは何か?
自分なりの考えを述べるならば、やはり先見性で問われるものと考えます。
時代の寵児・村上隆や奈良美智を現時点で購入したからと言って、それではコレクターとは言えない。
それは買う資金があるかどうかの問題です。10年も前の購入であるならばそれも一つの見識と言えましょうが現時点でのそれではミーハーかどうかが問われるだけの事。物故・新人にかかわらず発見・発掘こそコレクターの本領とすべき事だと思います。
最後に、私が最近開いたコレクション展での事。ある中年の方が「それでは画廊巡りは呆け防止にいいですね」という話になった。そうなんです。歩くでしょ、観るでしょ、感動するでしょ、評論(おしゃべり)するでしょ。知性と感性が磨ける画廊散歩(アート・ウォッチング)は悪い訳ないでしょ。」

全くの同感であり、私達画商も本来こうあるべきなのだが、あまりにも多くの画廊が既成の作家ばかりを追いかけていてその見識を疑う。
順番に日記で志あるコレクターの思いを紹介していきたい。

5月6日

連休あけでこれから渋谷西武の渡辺達正・小浦昇・木村繁之三人展の展示に出かけるのだが、明後日から韓国のアートフェアーの準備もしなくてはならず何かと気ぜわしい。
10日ほど留守にするので、日記も忙しい中書き置いて行かなくてはならず、あれもこれもと大慌てをしているところである。
今日も前回に引き続きコレクターのお話しを紹介する。
裸婦のコレクターとして日記にも登場したKさんがご自分のコレクション展を開くならこうしたコンセプトでやってみたいとの思いがあり、その思いを文章にまとめたのでと言って手渡された書面の中から一部分を紹介してみたい。

前回の1997年のコレクション展はある程度知名度のある作家の作品を中心にセレクトした。美術にあまり関心の無い鑑賞者であっても何人かの作家の名前は聞いた事があると言うような作品による展覧会であった。それによりサラリーマンコレクターであっても、ある程度の努力をして多少の投資をすれば世間で知られた作家をコレクションできると言う事も理解されたと思う。
またコレクションは好きでやるものだが、その好きにこだわりを持てば、私の場合は裸婦だが、多少なりともコレクションに個性が出せると言う事も理解されたと思う。
サラリーマンコレクターが限りある財力の中でいかに自分のコレクションに個性を出せるかと言う展覧会だったと思う。
しかし、前回展示したようなある程度評価の固まっている作品を買うのがコレクターかと言うとそれはどうも違うように思う。コレクターというのは、美術品を買うのではなく評価の定まらない作品を評価し購入する事によって、その作品を美術品にするのが役割ではないかと思う。
今回2度目の展覧会を行おうと思っているが、今回はそういった視点でコレクターとして評価した作品を展示したいと思っている。
従って今回展示する若手の作品は殆ど20代が中心の若い作家で、最初の貸し画廊での個展で観て買っている。安く買っているとはいえ、このようなコレクションは当然だがかなりの確率で無価値になるリスクが存在する。
今回展示した若手の作品で客観的に美術品として評価される作品は1点残るかどうかだと思う。
そのような結果的に美術品と言えないようなものをコレクションする事の意味は何かと言えば、それがまさにコレクターの意味だと言える。
買う事によって美術品にするのがコレクターである以上、自分の主観に客観がついてこなくても、そのリスクを負うのは当然であり、万が一客観がついてくれば無上の喜びと言える。

といった内容の文面だが、この趣旨に沿って近いうちにK氏コレクション展を開催したいと思っている。
私も無名の若い作家を取り上げ世に紹介をしてきたが、最初からこの作家達が売れるとか、この企画で儲けようなどと考えた事は無く、自分が評価をした作家を如何にコレクターの方に理解をしてもらえるかを考え、企画を続けていくうちに結果として多くの方の評価、信頼が得られようになれば、画商としてこれほどうれしい事はない。
従ってKさんと違う所は、自分で取り上げた作家は全て評価されるべきものと信じて世に送り出しており、それを生業としている以上コレクターに対してもそれだけの自負は持っていなくてはならないと思っている。

韓国テグのアートフェアーに招待されて行ってきました。
10日間の滞在でしたが、韓国日記をつけましたので日にちは遡りますがギャラリー日記の別バージョンでお伝えします。
(韓国日記 [ 5/8〜17 ] はこちら)

6月7日

木版画と立体作品を毎年交互に発表して、そのどちらにも共通する静かなリリシズムに魅了され続けていますが、今回は本来の木版画による発表。以前にも増して、造形的な要素がなくなり、色彩と明暗の微妙な変化が眼に留まるようになりました。光の立体作品で深まった表現の幅が、そのまま木版画に現われているのでしょうか。縦に、横に、色の粒子が流れるような肌合い。そして透明な色相の光の響き。どれも木版画の伝統を越えた輝きをはなっています。
久しぶりに木村さんにお会いしました…。

木村繁之展の感想をT・Sさんからいただいた。
T・Sさんは金融関係の会社にお勤めのサラリーマンコレクターで、コレクション展に参加されたり、Gallery・Viewというフレーズで展覧会のつれづれをメールで紹介をされている方である。
また、ご自分のコレクションや作家紹介、展覧会案内等を紹介するH・Pもいち早く立ち上げ、現代美術の愛好家のグループとチャットで情報の交換などもされていて、ネットを通してコレクターサイドからの美術の普及に熱心に取り組まれている方である。
私ももっと画廊廻りをして、新しい作家の情報を仕入れなくてはいけないのだが、以前のように足まめにまわることも無くなり、Gallery・Viewは私にとっては重要な情報源となっている。
今回の木村さんの作品はT・Sさんも述べているように色彩の表現に意識をおき、窓辺から差し込む朝の微かな光を作品の中に感じてもらいたいとの制作意図もあって、その結果以前にあった形はだんだんとなくなり、特に最後に出来上がった作品は水墨画のような微かな色の濃淡だけの表現に大きく変わってきた。
今までの技術を更に深め、水性木版ならではの微妙なかすれや透明感を巧みに出す事により、日本特有の情緒感を醸し出す精神性の高い作品となっている。
技術もさる事ながら、感性も作家本来持っている面が如実に表現されており、今までの中でも秀逸な展覧会のように思う。
韓国のフェアーに行って一番に感じてきた事は、作者の背景となる風土の匂いがしなくては海外で評価されるのは難しいという事であった。
そうした思いが彼の作風の中に感じられ一層心に響く展覧会となった。
形がなくなるということは、見る側にはイメージだけで捉えなくてはならず、暫くはそのギャップの中で受け取る側の評価に時間がかかるかもしれないが、私にとっては期待するところが大である。

6月10日

私事で恐縮だが、一番下の娘が今日で20歳の誕生日を迎えた。
まだ大学で勉強中とは言え、つつがなくここまで来て大人の仲間入りをした事は、親の責任は果たせたような気がしてほっとしている。
上の息子と娘も小さい時から望んでいた道に進み、何とか頑張っているようだが、下の子も自分の夢を実現すべく将来に臨んでいって欲しい。
ただ残念なのは、誰も画廊をやってみたいと言い出さなかった事である。
いつも苦労ばかりしている姿を見ていると、とても継ぐ気にはならないのだろ。
私は、父が新宿で椿近代画廊を経営していて当然のごとく後継ぎとして画商の道に入った。
父から画廊以前の仕事の話を聞かされることは殆どなかったが、戦前には通信機の工場を経営しており、戦後不治の病といわれた結核に罹病し、死を覚悟して工場を人手に渡し闘病生活に入った。
しかし、手術が成功し無事生還となり、新宿にあった土地にビルを建設し、人の奨めもあって画廊を開設する事となった。
画廊経営に素人の父は、他所の画廊の経験者に来てもらい企画を任せることになった。
当時は前衛運動が華やかし頃で多くの作家がアンフォルメル様式に傾倒していった時代でもあり、画廊はそういった作家や評論家が集まる熱気溢れる場所となった。
今思うと錚々たる作家達が発表をしていたのだが、現実は厳しくそうした難解な絵画が売れるわけはなく、苦しい画廊経営を強いられた。
そんな経緯もあり、私は一から勉強をするという事で、大学卒業と同時に大阪の老舗画廊に住み込みで働く事となった。
いわゆる丁稚奉公といわれるもので、私の後にも東京の日本画商の息子たちが何人も住み込みで働いていた。
今では考えられない事だが、その当時の画廊の器が如何に大きかったかがわかる。
ここで5年働き、年季明けということで東京に戻り父の画廊を引き継ぐ事となった。
この勤務時代は第一次絵画ブームと言われ、絵を購入するのに開店前から行列が出来たり、くじ引きをしなければ欲しい絵が手に入らなかったような画廊にとってはバブル期以上の好景気の時代であった。
ところが皮肉なもので東京に帰る直前から、突然オイルショックにより絵画が大暴落をし、一年もしないうちに絵画の値段が十分の一以下に下がり、今と同じように不況真っ只中にあって絵など売れるわけも無く、もう辞めてしまおうと思った事が何度もあった頃である。
そうした時期が数年続き、ようやく景気も上向いてきた頃に私の転機となる若い作家に出会い、世の中の景気に価格が左右されないような自分と共に歩んでいく無名でもいい手造りの作家を育てていこうとの思いを持つにいたった。
父にしてみると、画廊開設時のような苦労をするのではなく、老舗画廊で学んだ著名作家を中心とする画廊経営を私に期待していたのだろうが、逆の方に進んでいく私とは意見が会わず、また私が好む絵と父が好む絵にも相違があってお互いに鬱々とした日々が続く事となった。
そうしたある日、企画を巡り父とぶつかり、今までの溜まったものもあってか後先を考えずに画廊を飛び出し、成り行きで父の元を離れ独立をする事になってしまった。
何の準備も蓄えも無く一から始める事となったが、その頃家内のお腹に三番目の子がいて八ヶ月目に入っていた。
今思うと吃驚もしただろうし、不安にもなったと思うが何も言わずに私について来てくれた事は本当に有難かったし、今でも感謝している。
こうして新たな旅立ちが始まると同時に下の娘が誕生をする事となった。
娘の20歳の誕生日を迎え、私も自分の画廊を曲りなりにも20年やってこれた事に思いがいたり、感慨も一入である。
父親には親不孝をしてしまったが、結果的にはその後私の独り立ちを喜んでもらう事になり、毎週のように私の画廊に来ていたのが懐かしく思い出される。
今になって子供が誰も継いでくれない寂しさを思うに、あの時の父の気持がいかばかりであったかとの思いがよぎり胸が痛む。
ただそうは言いつつも実際は画商は一代限りであるべきとの思いが強い。
親子兄弟といえども絵画の好みは皆違うはずで、それぞれの感性で進もうとすると自ずから違う道を行かざるをえない。
画商と作家との出会いとはそういった中で生まれ、自分が信じた作家と共に歩んでいくのである。
私は父の期待は裏切ったが、自分の夢は貫き通してきた自負がある。
子供にも自分の夢を実現すべくこれからの人生を突き進んでいってもらいたい。
子供の20歳の誕生日と私の20年が重なり、感傷的なってしまったようだ。
いけない、こんな事を書いていたら、すっかり遅くなってしまった。
娘がケーキを前に全く遅い、いい加減にしてよと言っているのが目に浮かぶ。

6月13日

昨日、現代日本版画商協同組合の例会があった。
新理事による初めての例会である。
今年度からA画廊のA氏が理事長を務めることになった。
私は副理事長としてA氏を補佐する事になった。
A氏とあらたまって言うと堅苦しくなるが、彼とは慶応義塾大学時代からの長い付き合いである。
大学時代は学部も同じで隣りのクラスに在籍し、私が入っていたヨット部に遅れて入部をしてきた。
その当時、彼はアルバイトでモデルの仕事をしていて、雑誌のグラビアなどにも登場しとにかくよくもてた。
その彼が入部してきたのだから、我々男子部員は心穏やかではない。
ヨットの技術では高校時代からやっていた私のほうが断然上手いのだが、容姿があまりに違いすぎる。
女子部員や練習を見学に来る女性達の目は当然のごとく彼に向く事になる。
早く辞めないかななどと密かに思っていると、私の思いが通じたのか暫くして練習に来なくなり、そのまま退部をしてしまった。
私は大学に行くよりは海にいる事が多く、そのうち大学も学園紛争に突入し彼には滅多に会う事も無く、立て看板やバリケードに囲まれた殺伐とした中でお互い卒業式を迎える事となった。
卒業後、私は大阪の画廊に勤める事になるのだが、2,3年経った頃だろうか、そこに彼が突然現れた。
美術雑誌社に就職し、その営業で画廊に訪ねてきたのである。
これにはもう一つ別の話がある。
私の家内は当時同じ画廊に勤めていて受付をやっていた。
ある時、彼女の手帳から写真がパラリと落ちてきた事があって、慌てる彼女を尻目に何気なく写真を拾って見るとそこにはA君が写っているではないか。
何でA君の写真を後生大事に持っていたのか聞いてみると、家内は画廊に入る前に暫く東京にいた事があり、その時A君と会う機会があり、その時出会った彼に一目惚れをしたがあまりに高嶺の花、その時撮った写真だけを思い出にと大事に手帳の中にしまっていたのだそうだが、その説明だけは未だに釈然としない。
まさか大学以来の彼が、京都に住んでいる彼女の落とした写真の中から現れるとは想像もしないことで、その時、縁とは本当に不思議なものと吃驚した事を覚えている。
その大事にしている写真の当の本人が受付をしている彼女の前に突然現れたのである。
彼女の驚くまいことか、大慌てで私に連絡をしてきて、「あ・あ・Aさんが目の前にと・・・」何を言っているのかよく判らないまま受付に行くと、彼がいるではないか。
こうして久し振りの旧交を三人で暖める事となった。
その後、彼は東京の大手画廊に勤めることになり、私が東京に戻った後暫くして独立をし、A画廊の社長として現在に至るわけだが、この業界で一緒になっただけではなく、今回とは別の洋画商協同組合の設立に携わり、私が理事長を務めた後、彼に次の理事長を頼んだり、今回こうしてまた二人で新たに組合の運営に携わる事になったのも、家内ともども長い間の不思議な縁を感ぜずにはいられない。

6月20日

昨日、熱海の先の網代で業者が集まる大きな交換会が開催された。
熱海と違い、駅は鄙びた小さな駅で周囲が緑に囲まれ、駅前にお土産店や華美な装飾の飲食店もなく、こうした所に来ると旅に来たなという実感がする。
残念ながら観光ではなく仕事なので、周りを散策する暇もなく11時から7時まで僅かな休憩を挟み、延々と交換会は続いた。
この間、私の欲しい作品はなかなか出てこず眠たくなって来た矢先に、なんと以前から探して欲しいと言われていた有元利夫の版画が出てきた。
有元の作品は不況で美術品の価格が大幅に下落する中にあっても人気を保ち、版画といえどもかなりの価格がする。
1985年に38歳の若さで夭折した天才画家は、ポストモダンとも言える古典絵画の様式をベースにしたペーソス溢れる人物像を描き、その画面から醸し出される音楽性豊かな作風に魅了された人は多く、未だに有元利夫の展覧会には長い行列ができる。
喫茶店を経営しているNさんもそうしたファンの一人で、有元さんのものなら作品は勿論、展覧会の入場券やチラシまでありとあらゆる有元グッズを持っている。
有元が生涯制作した版画は全部で130種ほどあるが、Nさんは3点を除き残り全てを持っている。
その残りの3点をいつも是非探して欲しいと言われていたのだが、その内の1点がついに出てきたのである。


「蒼い風」 どなたかお持ちの方はご連絡を

興奮しつつ声を出していくのだが、どんどん競り上がり私のつける価格の上へ上へと値がついていく。
恐らくNさんが思っているであろう価格をはるかにオーバーしてしまった。
確かにこの作品はNさんが手にいれる事の出来なかった作品だけに、世に出てくることが珍しい作品でそれだけ人気も高いという事であろうが、もう勘弁してくださいと祈りつつ最後の声を振り絞ったが、またまたその上の値がついてしまい、Nさんには申し訳ないがあきらめざるをえなくなった。
そうして次の声で残念ながら別の方が落札する事になった。
その方とは朝に熱海の駅でお会いして、初めて名刺交換をさせていただいた地方から来られたビジターの業者さんだった。
誰だこの人を招待したのは。
その時は仕方が無くあきらめたのだが、時間が経つにつれ悔しい思いが募ってきた。
どうしてもっと追いかけなかったのか、Nさんにその経過をお伝えしたら怒られるだろうか、色々な思いがよぎり昨夜はまんじりともできなかった。
ただ慰めは、有元利夫の命日に行われる展示会には欠かさず見に行っている有元ファンの大学時代の友人が、どうしても1点だけは有元作品を欲しいと頼まれていて、その友人のために1点だけは落札できた事である。


12のバロックよりシャルパンティエ「夜」

Nさんの落胆する姿を想像しつつ、昨日の経過を説明するのは気が重いが、落札した業者さんにはもしそちらで売れなかった時には是非声をかけて欲しいとだけは頼んでおいたので、一縷の望みありと報告するつもりである。

6月25日

梅雨空の鬱陶しい日が続く中、それほど強い雨は降らなかったが、今日は朝から足元に跳ね返るくらいの激しい雨が降っている。
そのせいか画廊を訪れる人も少なく、多少手持ち無沙汰で久し振りにテニスクラブで親しくさせていただいたTさんに電話をしてみる。
運動不足解消すべく15、6年前からテニスを始め、親しい友人の誘いもあって高井戸にあるテニススクラブに入会した。
下手なりにテニスを楽しみ、テニスを通じて多くの友人を持つ事が出来た。
ところが、昨今の不況の中にあってこのテニスクラブも身売りする事になり、クラブが閉鎖されてからはテニスとも縁遠くなって、友人達と会う機会もめっきりと少なくなった。
Tさんとはテニスではそれほどお手合わせをする事は無かったが、美術品が好きな事もあって色々と相談を受けたり、気に入った作品があると声をかけてもらい、画廊の方で大変お世話になっている方である。
Tさんのコレクションはもっぱら美人画ばかりである。
生身の美人はなにかと面倒が起こるので、絵の中の美人を楽しむ事にしているのだそうだ。
Tさんの家へ行くとそうした美人画が壁面一杯に飾ってあり、ハーレムと化している。
久し振りに電話をしたのは、これも大変お世話になっている弁護士のHさんから依頼を受け、スペイン在住の美人画を得意とする中嶋義行の作品の紹介を頼まれ、それならばTさんに一番に連絡をということになった。
Hさんも有名なコレクターでフジタやルオー、コローといった絵画からティファニー、ガレといったアールヌーボーのガラス製品まで広くコレクションをされている方で、一方では中嶋義行を始め若手の作家のパトロンとして数多くの作品を収集している方である。
お年が80歳を超え、お仕事も一線から退き、お身体も多少不自由になった事もあって作品の飾り替えなど大変になり、コレクションの一部をお好きな方にお譲りできないだろうかとの相談を受けてお手伝いをさせていただく事になった。
Tさんに取って置きのスペイン美人を紹介したいのでとお話ししたところ、先ずは見せてくださいとのご返事をいただき、久し振りにお宅に訪ねることになった。
鬱陶しい梅雨空のなか暫しの癒しに、年も取らず、文句も言わずにきれいなままでいてくれるハーレムの美人達との再会が楽しみである。

6月30日

第9回目の京橋界隈展が始まった。
この界隈の画廊が20軒同じ会期に2週間無休で展覧会を開催し、同時に400点余の作品をオークションに出品し、画廊には入りにくいお客様にも気楽に美術品を購入してもらおうとの趣旨で行われる夏の恒例イベントである。
私が20年前に京橋に画廊を出した頃はこの界隈には10軒足らずの画廊しかなかったが、こうした町おこし、画廊おこしが実を結び今ではこの界隈に100軒もの画廊が集まり、東京のというより日本の画廊の中心街と言ってもいいほど多くの画廊が軒を並べている。
それぞれが個性ある展覧会を開催し、以前は中心といわれた銀座4丁目や並木通りの画廊巡りをしていた人の流れがこちらに移ってきたようだ。
この地で画廊を開くにあたり、この界隈で古くから画廊を構えていたN画廊の社長にお願いをして近所の画廊にも声をかけ、年に4回季節毎に京橋界隈というネーミングで展覧会案内のチラシを配り、銀座だけではなく京橋にも画廊があることを知ってもらおうと始めたのがきっかけだった。
丁度、私の画廊の前に江戸歌舞伎発祥の地という大きな記念碑があり、近くの現在国立フィルムセンターとなっている所も以前は国立近代美術館のあった場所で、此処こそが東京の文化発祥、いや日本文化のメッカだと自負している。
ニューヨークのチェルシー、パリのサン・ト・ノーレ、ソウルのインサドンとどの国にも画廊街があるが、外国の人達が日本の画廊街は京橋と言って訪ねてきてくれる日も近い。

2003年後半へ最新の日記はこちらご感想はこちらまで

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