ギャラリー日記 Diary

バックナンバー(2005年7月〜9月)

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7月1日

月刊ギャラリーのClose-upに来週から始まるコイズミアヤが取り上げられた。
25歳の時に私のところで初めて発表して以来6回目の個展となるが、発表のたびに違った展開を見せてくれていて、記事の中でも変わっていく過程の心のありようが語られていて興味深い。
最初は無機的な未来都市空間のような表現からスタートした彼女だが、ここ暫くは自然との関わり、日常目に触れて印象に残ったものを表現するようになってきた。
BOXという限られた空間の中に最初はそうしたものを封じ込めていたのが、だんだんと解き放たれ外へと拡がっていくようになった。
覗いて見たいという本能的な心理から、その種明かしをするかのように、展覧会ごとにそのベールが剥がされていった。
ところが、今回はそれが元に戻り、狭い空間の中に宇宙のような神殿のような崇高なものが納められている。
何気ない道具箱の中に、見てはいけない神聖な場所をこっそり覗いて見るどきどき感や、ジャングルに分け入って、ようやく見つけた王宮の前に佇む昂揚感のようなものを感じていただければ幸いである。


「行き方について」 内観

「待つ」 内観

聖なる山

7月2日

来週から恒例の京橋界隈展が始まる。
暑い夏に何軒もの画廊めぐりをしていただくのは申し訳ないような気もするが、夏の風物詩と思って廻っていただきたい。
今回は紹介のパンフレットも大判となり、展覧会案内だけではなく、京橋今昔物語や海外アートレポート、京橋界隈お薦めランチマップなど盛りだくさんで、より深く、身近に京橋界隈アートゾーンを知っていただけるのではと期待している。
各画廊も内容のある展覧会を企画しているので是非ご覧下さい。

7月3日

山本麻友香からうれしいメールが届いた。
こういう作家達とともに歩んできた事を心から有難く思う。
彼女の展覧会も山あり谷ありで、全てが順調だったわけではないが、彼女の才能と可能性を常に信じていたからこそ今があると思っている。
海外からの展覧会のオファーや大きな催事の招待など忙しくなってきた彼女だが、きっと今と変わらない気持ちで精進してくれるに違いない。
私的なメールだが少し自慢したくてそのまま転載させてもらった。

こんにちは。
「zebra boy」の預り書がFAXで届きました。ありがとうございました。

さて、実はうちのFAXの調子がわるいこともあるのですが、わがままを言い恐縮なのですが、預り書を郵送していただけませんでしょうか。

昨年からの絵らはこれまでになく愛着があり、完成して手放すときは言い様のない寂しさを覚えます。

それで、「あの絵はたしかに存在したんだ」という、証しのようなものがほしいのです。
お手数をおかけしますが、よろしいでしょうか。

ところで、いま、版画とともに注文をいただいている絵らを描いていますが、それ以外にもうひとつ0号よりもちいさいキャンバスに、かつての「ape arms」を描いています。(私にとって、とても愛着がある絵でした。)

これは、いままで売れない時もなんにも言わないで、育てて下さったギャラリー椿のオーナーにプレゼントする予定のものです。椿原さんはそんなのいいから、KIAFとか個展とか頑張りなさい、と言うかもしれませんが・・・。

絵はいままで、親戚にも差し上げたことはなく、椿原さん御自身からも作家は絵は差し上げるものではない、というようなことを伺ったような気がしますが、今回は特別ということでお許し願います。

ただ、描かねばならない絵が多く、いつ完成になるのやらと溜息・・・。

ギャラリー椿の皆様お体を大切に。

山本麻友香

7月4日

京橋界隈が始まったが、あいにくの雨、それもかなり強い雨で出鼻を挫かれてしまった。
コイズミアヤの展示は床だけを使い整然と2列に並んだ白い箱のラインがとても美しく、9個の箱が一体となって空間を構成している。
周囲の照明も落とし作品だけにスポットを当てるようにして、全体を厳かな雰囲気にしたことで、今までの明るく開放的なギャラリーとは違った空間になった。
どちらかというと、長年なじんだ以前の地下のギャラリーに戻ったようで、何故かほっとする。
モグラ生活が長かったので、私には地上では眩しすぎるのかもしれない。
立退き前のギャラリーがあったビルはまだそのまま残っていて、時々入り口の扉のガラス越しに中を眺めながら、懐かしいその当時の展覧会を思い出しては感慨に耽っている。
斜め前のビルの取り壊しも始まり、もうすぐこの一帯も様子が一変してしまうのだろうが、新しいギャラリーと同じように町並みに慣れるのにも暫く時間がかかるような気がしてならない。

7月5日

昨日と打って変わって、真夏の暑さが戻ってきた。
暑かったり寒かったりで体が追いつていかない。
そんな中、やはり京橋界隈なのだろうか、たくさんの人が見に来てくれる。
大手証券会社の役員をしている高校時代の友人T君が部下を連れてやってきた。
皆一様にコイズミアヤの作品を見て驚いている。
これは何なんですかと?
友人が言う、「箱を漆で塗ったり、金箔が貼ってあると綺麗なのに」
そこが工芸とアートの違いと答えた。
じゃーその違いはどこにと切り返される。
使う美と感じる美、わかるかなー。
わからない、何だろう、ああしたら、こうしたら、そういう風に感じてくれる事がアートなんだよと言うと、怪訝な顔をしつつ帰っていった。
次に来た先輩の画商さんがコイズミアヤの作品を買ってくれた。
物故の名品を扱う画商さんだが、時々若い作家の立体作品を買ってくれる。
箱の作品が好きなんですよと、先日も李朝の箱を買ったばかりだという。
置く場所もなく、どうしようというわけでもないのだが、なんとなく買ってしまうと言う。
この何となくは説明が難しい。
その説明しがたい不条理な部分がアートであり、コレクションなんだと思うのだが。
わかったかなT君?

7月6日

先日の日記で紹介した日経BP社の小川敦生編集委員のインタビュー記事が日経BPのWEBサイト nikkeibp.jpに掲載される事になった。(ライフスタイルー充実空間ーアートゲノム欄 http://nikkeibp.jp/style/life/joy/art/050704_gallery/)
[アートゲノム第35回〜画廊という不思議空間で得られるトキメキとは?]というタイトルで画廊とはどんな存在なのかといった質問を受けながら話させてもらった。
まだまだ画廊や画商がどういったものなのか知られておらず、この記事を読んで、画廊に気楽に立ち寄っていただき、心の休息をしていただくと有難いのだが。

7月7日

昨日は 京橋界隈に参加している柴田悦子画廊の柴田女史の引率で画廊巡りツアーの一団がやってきた。
彼女が講師をしているNHK文化センターの生徒さん達で、京橋界隈展を順番に見て回るとの事。
この前も画廊巡りの団体がやってきたが、少しでも宣伝になれば有難い。
柴田女史の画廊は自身が多摩美術大学の日本画科を出た関係もあって、日本画の若手作家の展覧会が多いが、その展覧会のオープニングが見もので、彼女や作家がコスプレで変身してパーティーを盛り上げる。
その様子は彼女の画廊のホームページ「悦子の部屋」で紹介されていて、それは凄いの一言に尽きる。
看護婦あり、日本髪あり、白鳥であったり、蛙であったり、千変万化よくぞここまでと見せてくれる。
私も時々怖いもの見たさに「悦子の部屋」を覗くが、これを見れば怖いものなし、勇気さえ湧いてくるから不思議だ。
是非一度「悦子の部屋」を覗いて画廊を訪ねて欲しい。
病みつきになるかも。
京橋界隈のページから入っていけます。

7月8日

京橋界隈展に因んで、今回のパンフレットなどを引用しながら、このあたりの歴史を紐解いてみた。
元々この辺りは海であったのが、江戸に徳川家康が幕府を開府して以来埋め立てと掘割で整備され、その堀にかけられた橋が京橋、日本橋、呉服橋などと名づけられた。
京橋の名はここから京都に通じるということでつけられたと言われるが定かではない。
日本橋は商家、京橋は畳町、紺屋町、桶町、炭町、塗師町などと名付けられ、町人職人の町として栄え、その環境が元禄文化誕生の礎となった。
またこの近くには大根河岸などの地名も残っていて、ここから野菜が荷揚げされた情景が浮かぶ。
現在は埋め立てられてしまった当時の場所に、京橋の親柱である明治8年当時の擬宝珠型の柱と大正11年の照明設備のある柱が残されている。
橋のたもとだったところには柱のデザインをかたどった交番があって当時が偲ばれる。
記念碑もいくつかあって、画廊の斜め前には江戸歌舞伎発祥の地の石碑や大根河岸青物市場跡の碑が据えられている。
更には東海道五十三次で知られる安藤広重が亡くなるまでの10年を過ごした住居跡や江戸幕府御用絵師であった狩野派一族の住居が京橋のブリジストン社屋近くにあったことからもこの地が文化にゆかりがあったことがうかがえる。
昭和27年にはブリジストン本社にブリジストン美術館が併設され、今はフィルムセンターとなっているが国立近代美術館もこの地で誕生した。
また古くから骨董商がこの辺りに軒を連ね、画廊も現代美術の草分けとなった南画廊が店を構えていた事もあってか前衛的な画商が集まり、いつのまにか銀座に変わって京橋界隈が画廊街の代名詞になる程多くの画廊が軒を並べるようになった。
この辺りも再開発の波が押し寄せているが、文化の香り高い町としての伝統を活かしながら再生していって欲しい。

7月9日

長い間現代美術の企画をしてきた画廊さんから頼まれて、息子さんをしばらく行儀見習ということで預かる事になった。
社員を増やす余裕などないのでお断りをしたが、たっての願いを断りきれず、週に2,3日来てもらい、雑用をしながら画廊の仕事を覚えてもらう事にした。
今日はお客さんのところに運転手を兼ねて一緒についてきてもらい、お客さんとのやり取りを肌で感じてもらった。
運転をしている彼の姿を見ているうちに、37年前に大阪の梅田画廊の社長の家に住み込みで働いていた当時が懐かしく思い出された。
社長宅のガレージの奥の6畳ほどの部屋に2段ベッドが二つ並び、むさくるしい男が4人居候していて、薄汚い学生時代の合宿所を抜け出したのも束の間、それとあまり変わらない生活の毎日であった。
当時梅田画廊には80人の社員がいて、版画や彫刻の専門店を含め五つの支店、美術館、貿易会社、アートグッズ販売会社などを擁し、そこから泰明画廊、江戸堀画廊、ギャラリー新居、ギャラリーところなど多くの画廊が生まれた。
今の私があるのは梅田画廊の先代の社長土井憲治氏のお蔭と感謝しつつ、洋画商の先駆者として常に尊敬してやまない。
丁稚奉公などいまどき流行らないが、自分の経験から言って、父親の下で覚えるよりは多少は他所で覚えることの方が身につくだろうし、画商としてどうあるべきかも自覚できるのでは。
島田という青年ですが私同様によろしくお願いします。

7月10日

ニューヨークのオークションで草間弥生の60年代の作品が1億円を超えた価格で落札されたという。
村上隆の作品も相変わらず5千万、6千万で落札されている。
日本のオークションでも奈良美智の3号が550万円で落札された。
果たしてこの価格が正常な評価と言えるだろうか。
中国でも日本のバブル期同様に中国の若手作家の価格がものすごい高値で取引されているがいつまで続く事やら。
中に入ってしまうと見えなくなってしまうが、傍から見ると馬鹿げていることがよくわかる。
長い間に高い評価を受けるようになるのならいいが、突然未評価の作家の作品が何千万円、何億円となるのは正しい評価とは言えず、投機的な価格と言っていい。
ところがオークションでこうした価格がつくと、すぐに動き出すのが日本のブローカー画商たちである。
つい先日まで、ヤマガタだカシニョールだと騒いでいたのが平山、東山となり、今では草間だ、奈良だと目の色を変えている。
1億円を超えて落札された草間の作品も未評価の時代の作品で、海のものとも山のものともわからない時代にこの作品を買ったコレクターはさすがと思うが、今になって草間や奈良にも会った事もないブローカー達が大騒ぎしているのを見ていると情けなくなる。
バブル期にある大手銀行の銀座の支店長がやってきて、銀座、京橋の地場産業は画廊なので無担保で金を貸すからどんどん絵を買ったらどうかと熱心に勧められた。
70年代の絵画ブームの時の痛い経験もあって、見込みで絵を仕入れるのは危険なので断ったが、今お金を借りないのは経営者として失格ですよと言われた事が今でも耳に残っている。
その支店長はバブル崩壊とともに子会社に飛ばされてしまった。
オークション市場に踊らされる事なく、好きな作品を自分の懐勘定で手に入れるのがコレクションの楽しみであり、そうしたコレクターに満足してもらえる作家を紹介するのが画廊の役割であると思っている。
店を持たなかったり、展覧会も開いた事もない画商がその時の風潮に踊らされて、オークションで跳梁跋扈するのを見ていると、わが美術業界の先行きはまだまだ暗い。

7月11日

日曜に昔の資料を調べていたら、こんな写真が出てきた。
40年程前の写真で何とジャスパー・ジョーンズがある評論家に連れられて椿近代画廊を訪れた時の写真である。
その当時、新宿の父親の画廊は前衛絵画を中心に展覧会を企画していた。
ちょうど個展を開催していた小島信明の作品にジャスパーは衝撃を受けたと聞いている。
定かではないが、この時父親にジャスパーは日本での個展を希望したらしいが、外人は駄目と断ったようだ。
もし断らずに個展をしていたら、星条旗などジャスパーの代表作を描いていた時代でもあり、歴史に残る展覧会が開かれたかもしれない。
今年の初めに東京都現代美術館で開催された榎倉康二の遺作展でも、最初の部屋に彼の第一回の椿での個展の展示図が記録として並べられていて、新宿からも日本の美術史に残る多くの作家が巣立っていった事をあらためて思い起こさせられた。
今振り返り、パイオニアであった父の仕事を誇りに思うとともに、私のところで巣立っていった作家達もいずれはこうして次の時代に語り継がれる作家になる事を願っている。

7月19日

先週は幾つか交換会やオークションがが続いたこともあって、日記を書く時間がなくなってしまった。
そんな中、版画商の交換会の折に、クリスティーズニューヨークの版画部門の部長ケリー・トレスター女史に来ていただき、5月に行われた春の版画オークションについて話をしてもらった。
5月のオークションは1989年の絵画ブームのピーク時と同じ1200万ドルの出来高を記録し、流通性の高い作家の代表的作品それぞれに高値がついた。
20世紀作家ではピカソ、シャガール、マティス、ミロといった作家が高く、特にピカソは56点もの作品が出品されたが、「貧しき食事」を始めとして次々に高額で落札された。
今までだと、同じ作家の作品が多数出品されると価格が抑えられてしまうのだが、今回はそんな事もなく高い価格がついた。
またアフターと言われる後刷り作品も高くなっていて、中には2,3万ドルの価格がつくものがあった。
現代美術の作家達も人気で、43点もの作品が出品されたウォーホールは注目を集め、マリリンモンローのセットは65万ドルと言う記録的な価格がついた。
ジャスパー・ジョーンズも強い人気があり、フラッグは43万ドルと89年の価格を上回った。
他にはリヒテンシュタイン、キース・ヘリング、マザーウェル、ケリー、ホックニー、クーニング、などが強い。
またポートフォリオと言われる数人の著名作家による版画集にも人気が集まった。
オールドマスターではレンブラントの価格が回復し、後刷りのものも高くなっているようで、6月のロンドンのオークションではエスティメートの倍の20万ドルがついた作品もあった。
逆にルドン、ボナール、ヴィヨンや19世紀作家は弱いようだ。
日本からの出品が30%を占め、オークションのハイライトとなるものも多く含まれていた。
購買層もアメリカだけでなく、ヨーロッパ、日本、中国、韓国などのアジアと広範にわたった。
オークション市況はいいものはきちんと売れるといった非常にシンプルな傾向となっていて、次回11月の秋季オークションは1989年を超えると予想される作品が多数出品予定との事。
以上のようなに羨ましいような状況で、海外にルートを持っている画廊は日本で安く購入した作品を海外で売る事で活況を呈しているようだ。
そんなことに関係のない私のところは小さな事からこつこつとでいきます。

7月20日

先日スイスに山本麻友香や富田有紀子の作品を送るようにお客様に依頼された。
120号を含め大作を中心に10点ほどであったが、さてスイスとなると港もないしどこの運送会社に頼んだらいいのか考えてしまった。
先ずは大手の会社に航空便の見積もりを出してもらったら100万円近くになってしまい、これは作品価格と比べてもとんでもない値段で航空便はあきらめることにした。
そうだ、バーゼルのアートフェアーに出展している画廊に運送屋さんを紹介をしてもらうのが一番と気がつき、早速に教えてもらう事にした。
3社それぞれに今度は船便での見積りをしてもってもらったが、どこも4,50万かかるとの返事が来た。
いやはや海外に作品を送るのは大変な事だとあらためて考えさせられた。
この前オランダの画廊に頼まれて作品を送った時にもややっこしい事があった。
フレームの件もあるのでチューブで早めに航空便で送ってくれとのメールが来た。
額なんか入れなくてもいいのにと不思議に思ったのだが、チューブの意味はよくわからないままにキャンバスを梱包してすぐに送ることにした。
しばらくして、先方から作品は届いたがとんでもない運賃だとクレームのメールが届いた。
メールによるとキャンバスを何故丸めて送ってこないのだ、そうすれば2,3万円ですむのにということらしい。
フレームと言うのはキャンバスの枠の事で、枠をはずしてキャンバスを丸めてチューブに入れて送れという指示だったようだ。
早めに送ってくれれば、向こうでキャンバスの枠を組み立てらる時間が取れると言う事だったらしい。
ヨーロッパではキャンバスも丸めて送るのが当たり前のようだ。
言葉や習慣の違いを痛感させられた。
この時は勘弁してもらったがいい勉強になった。
海外に作品を紹介する機会が多くなったが、世界の極東にあることをつくづくと感じる。
スイスの件は韓国のフェアーでお世話になっている会社が格安で送ってくれることになって一件落着。

7月21日

エアコンで喉をやられたのか先週末から熱が出たりで体調が今ひとつはっきりしない。
正月も風邪で寝込んでしまいどこにも出掛けられなかったが、休みになると気が緩むのか、それとも歳のせいなのか今年に入って2回も寝込むとは。
そんな事もあって、病院の苦手な私も5年振り位になるだろうか、精密検査を受けてみようかなと思い立ち、8月の始めに検査の予約を入れることにした。
そんな事を思っている矢先に、以前に私のところで写真展を開催した中川政昭氏が亡くなったとの知らせが届いた。
2,3週間前に横浜で久しぶりに個展をするのでと言って、案内状を持って訪ねてきたばかりだったので吃驚した。
写真を素材に赤外線や真空瓶等いろいろな装置を駆使して精力的な制作活動をしていただけに、そのあまりに早い死が惜しまれる。
個展とは別で中川氏を含めた3人の写真によるオブジェ展を企画したことがあって、そのうちの一人であった福田亘氏も数年前に私どもの個展の約束を果たすことなく50歳の若さで逝ってしまった。
偶々私が関わった数少ない写真作家二人ともがあまりに早い死を迎えた事に愕然とする思いである。
平面だけの写真だけではアートとのとっかかりが難しいのではとの思いで、写真を使ったオブジェを制作する二人に期待していたのだがその二人が夭折してしまい何と言っていいのか言葉も見つからない。
遺作展となってしまったが、明後日の7月23日まで横浜のギャラリーパストレイズで新作展が開催されている。
中川氏のご冥福を祈るばかりである。

7月22日

昨日、韓国から大手建設会社の会長が画廊にやって来た。
日本に商用で来ていて、合間に画廊を訪ねてみたいとのことで、知り合いの画廊がうちを紹介してくれたようだ。
日本語が駄目で、英語でやり取りしたが、またまた語学力の無さを痛感した。
ある程度話す事が出来れば、展覧会の説明や作品の解説が出来るのだが、たどたどしい英語では殆ど通じていない。
結局は希望している作品は自然の山や樹木を描いた風景画のようなオーソドックスなもので、具象作品も何点か見せたが気に入った作品は無かった。
また見てもらった作品も小さすぎて、もっと大作が欲しかったようだ。
急な来廊でこちらも準備不足でリクエストに応えられなかったのが残念だった。
今度10月の韓国で開催される日本現代版画特別展の時の再会を約して帰っていかれた。
今一番の悩みは語学とパソコンで脳梗塞状態の頭では一向に前に進まない。
韓国大手企業との縁をどう活かすか、私の語学力にかかっている。

7月23日

鈴木亘彦展が始まった。
ガラスによる造形作品の発表を続けていて、私の所でも5回目の個展となる。
それ以外にも東京や韓国のアートフェアーでも紹介させてもらった。
東京のアートフェアーの折には、同じ出すなら限られたブースの中でどれだけ空間を生かすか、120余の画廊が出展している中でどれだけ私のブースが目立つかを彼に考えてもらう事にした。
ナイター照明用のライトなどを使い、ガラス作品を一際引き立たせる事でブース全体が輝き、隣のブースの画廊主に「あんたの所は集蛾灯のごとく人が入っていく」と言わしめたくらいの盛況で、来賓で来ていた石原現都知事や鈴木前都知事までが作品を購入し、予約を含めて70点の作品を売るという大成功の展覧会であった。
またこのとき出展していた現韓国画廊協会会長の金氏が、鈴木作品を気に入り、韓国のアートフェアーの1ブースを提供するのでぜひ参加して欲しいとの要請をいただき、これを機会に韓国の画廊との縁も結ばれた。
その時は初めてのことでもあり、また日本人作家の作品は先ず売れるはずが無いとも聞いていたので、折角の招待、日韓親善になればとの思いだけで出掛けたが、これまた好評で作品も売れ、私が韓国のフェアーに積極的に参加する契機ともなった。
鈴木作品との関わりが私の画廊の新しい方向性を示唆してくれたような気がしてならない。
今回はガラス作品の造形的な美しさもさることながら、描くという部分が加えられ新しい側面を見せている。
暑い夏に彼のガラス作品は一服の清涼感を呼ぶ事請け合いで、是非のんびりと作品鑑賞のひと時を過ごしに来ていただきたい。

7月25日

今日からGTUでMY・COLLECTION「KAIMITU」展が始まった。
女性コレクターのMさんが7年前から集めた開光市作品を紹介する。
7年前に私のところでペンデッサンを手に入れたのがきっかけで、その後開さんの地元金沢の展覧会まで出掛けていって手に入れた作品など15点が展示される。
他にも多くの作家達の作品をコレクションしているが、特に開さんの作品には思い入れがあるようで、今回こうして広く開作品を知ってもらう機会を作っていただき、画廊としても感謝に絶えない。
コレクション展もさることながら、Mさんが女性コレクターである事を特筆したい。
昨今、盛んに開かれるようになったサラリーマンコレクション展だが、その全てが男性によるコレクションである。
ご夫婦で画廊巡りをされたり、集められたりしている方はいるが、お勤めをしながら女性でこれだけのコレクションをしている人はそんなにはいない。
以前にお世話になった女性コレクターの方で那須にニキ・ド・サンファール美術館を建てられた方もいるが、これは例外中の例外で。
普通買い物と言えば女性がするもので、男性で買い物好きな人をあまり聞いた事が無い。
海外ブランドにもバーゲンセールにもテレフォンショッピングにも男性の出る幕はあまり無い。
ヴィトンだエルメスだイッセイだと目の色を変え、抱えきれないほどのバーゲン品を持って走り回っているのは皆女性である。
そうした女性達は何百万円の時計やハンドバッグに興味があっても美術品までは目も手も廻らないのかもしれない。
ところが美術館やデパートの美術展になるとご婦人方で一杯なのがこれまた不思議だ。
見るのと買うのとでこれほどギャップがあるのも珍しい。
是非、女性の方に今回のコレクション展を見ていただき、洋服の一枚、靴の一足を我慢してもらい、その浮いた分で美術品に目を向けていただけるのを楽しみにしている。

7月30日

今日まで開催していたMY・COLLECTION展のMさんにお叱りを受けた。
先の日記で女性が云々と言うのはセクハラだとのご指摘を頂いた。
女性だからと言う見方は確かに偏った考えと反省をし、Mさんはじめ女性の方にお詫び申し上げる。
展覧会自体は開光市を知る上では貴重な展覧会だった。
一人の方が自分の目で選んだ開作品を並べる事で、作家や画廊が並べるのとは違った視点で開光市を見る事が出来た。
Mさんの好みが当然そこには反映されるのだが、その事で開作品にはこうした一面が脈々と流れている事をあらためて知る事ができた。
怖い、気味が悪い、毒がある、絵の表層だけを捉えると概してこうした言葉が返ってくる。
ところが今回の作品を見ていて強く感じたのは作者自身の暖かい眼差しだった。
どこかいとおしいような慈しむような気持ちをその人物像にこめているような気がしてならなかった。
開作品の中に隠されているヒューマンな部分がMさんを虜にしてしまったのかもしれない。
開さんが以前に訪れたポーランドのナチ収容所の子供達をテーマにした暗い作品が幾つかあるが、戦争の悲惨さや残酷さを描いているのではなく、そうした状況にあってもかすかに残る子供達の純粋さを描き出そうとしていた事に今気付かされた。
Mさんにもその頃の作品を見てもらいたかったのだが時間が取れず次の機会に見てもらおうと思っている。
この一週間私どもがお世話をさせていただいた絵を今一度紹介していただくと言う画廊冥利に尽きる展覧会をして頂いたMさんに心からお礼を申し上げたい。

8月1日

日曜日に画廊で大学時代の友人達のバンド・ローガンズ(老眼?)のライブが行われた。
昔懐かしいカレッジフォークの面々で、オールディーズのナンバーを次々と演奏し、歳を忘れて皆大いに盛り上がった。
それぞれ会社の要職にあって練習時間はあまり無いそうだが、メンバーの中には加山雄三のランチャーズの元メンバーもいて、腕前は中々のものである。
先日もアマチュアバンドの全国大会で準優勝した実力もあり、老体に鞭打って演奏する姿は感動ものであった。
美術にはあまり縁の無い連中に画廊に気楽に来てもらう意味もあって会場を提供する事にしたのだが、集まった80名ほどの仲間も演奏後はワインを片手に熱心に作品を見てくれて企画した甲斐があった。

8月2日

ここしばらく大変お世話になって頂いているMさんがお見えになり、夏休み明けに予定しているギャラリーコレクション展の作品を見ていただいた。
その中でもとにかくこの作品だけは早く皆さんに見ていただきたかったのだが、絵のクリーニングと額装に時間がかかってしまい、つい先日ようやく画廊に戻ってきた中本達也の名品を早速に披露した。
先日届いて箱から出した時にも体が震えるほどの感動があった作品で、Mさんがどのように見ていただくか期待を胸にお見せする事にした。
以前に遺作展を開催した事もあり、その折にかなりの中本作品を見ているのだが、今回のこの作品は代表作と言って過言ではなく、中本作品を多く所蔵する山口県立美術館や下関市立美術館にもこれほどの作品はないと確信している。
これだけの作品が先にも書いたが、オークション会場の壁にも飾られずに床の上に何点も重ねて置かれた中にあったのだから驚きである。
他の作品が目的で出掛けたのだが、偶然にもこの作品を見つけることが出来たのはまさにラッキーとしか言い様がない。
ぞんざいな扱いもあってか競争相手も僅かで私が落札する事ができた。
掘り出し物とはまさにこのことである。
有名作家ばかりに目がいっていて、こうした作品の素晴らしさに誰も気付かないのは寂しい限りであるが、それが私には幸いした。
Mさんが食い入るように作品を見つめる。
そして中本作品と全く初めての出会いにもかかわらず購入していただく事になった。
私がこれほどに心を動かされた作品を一目で気に入ってくれた事が本当にうれしかった。
何も語る事が無くてもいい絵は人の心を動かしてくれるのだろう。
どんなにいいのかは実際の作品を見ていただきたい。
8月23日からのギャラリーコレクション展をお楽しみに。

8月3日

Tさんのところへ作品を届けがてら、オペラシティーミュージアムで開催中の難波田龍起展と難波田史男展を見てきた。
全てTさんの寄贈品で、一堂に並ぶとそのコレクションの充実振りがわかる。
展示されていない分を含めると龍起作品が700点、史男作品が400点にのぼる膨大なコレクションである。
寄贈品でオペラシティーの倉庫は一杯になってしまい、まだ寄贈されていない作品の納め先をTさんは探している。
最近は私どもの山本麻友香や富田有紀子、呉亜沙を始めとした若手作家の収集が中心になっていて、こうした作品がしかるべきところに寄贈されあらためて展示される事を思うと、作家や私達も内容のある作品を如何にして納めるかおのずと力が入る。
以前のギャラリー椿があったビルの2階に兼素洞という知る人ぞ知る有名な画廊があった。
日本画専門で先代の主人は戦前の三越の美術部長で、日本画のコレクターで有名な山種証券の山崎種二社長と同郷であった。
三越を退職し独立するに際し、山崎社長に挨拶に行くと「ブローカーのように絵を右から左に動かすような事はするな、作家から作品をもらい展覧会をするなら応援してやる」と言われ、当時の日本画家の新作の展覧会を開催するようになった。
出品作が山崎氏に買われ、その後山種美術館に収蔵されると言う事で、日本画家たちは代表作となるような作品を次々と兼素洞で発表するようになった。
兼素洞の名前は一躍美術界に知れ渡り、兼素洞から声のかかる作家達は一流の証しとなった。
今は先代、後を継いだ番頭さんも亡くなり画廊も閉じてしまったが、当時私が同じビルに入る事になった時、同業の仲間は兼素洞のビルに入るなら画廊は安泰だと言ってくれたものである。
T氏コレクションに納めているギャラリー椿も兼素洞にあやかり、その評価が上がるよう頑張らなくては。

8月4日

サーバーが壊れてしまった。
まだ4,5年しか経っていないのにと思ったら、そのくらいが寿命だと言う。
買い換えると四、五十万かかるのだそうだ。
パソコンにすべて頼ってしまった現状では、そんなにかかるなら止めてしまおうとはいかない。
まさにコンピューターの蟻地獄にはまってしまったと言っていいかもしれない。
他にもモニターも古いから替えたほうがいいとか、昨今のリフォーム会社のようにこちらの無知に付け込んで次々といろいろなものを買わされるているように思えてならない。
毎月それ相応の管理費やホームページ作成費、サーバー使用料などを払っていて、その上ハードのほうが4,5年の寿命とするとその経費は馬鹿にならない。
更に販売管理等のソフトのバージョンアップを薦められているのだが、その費用も40万ほどかかるそうだ。
兎に角壊れてしまったものは仕方が無いので、サーバーだけは新しいものに替えてもらった。
ところが入れ替えている間に今までのデーターが消えてしまい、未だに回復しない。
販売管理や商品管理、顧客管理など全てが使えなくなってしまい、ここ1週間ほど陸に上がった河童状態である。
バックアップをしているのだが、直近のデーターをうっかりしてバックアップしておらずほとほと困っている。
これだけの費用をかけても消えてしまったら元も子もなくなってしまうのだから情けない。
コンピューター世界にどっぷり浸ってしまい、そこから抜け出せなくなってしまった事に戦慄さえ覚える。
管理会社には金を払わないどころか、もし駄目だったら損害賠償も。

8月5日

土曜日からいつも京橋界隈で行っている京橋界隈オークションに代わり、私が所属している新美術商協同組合主催によるチャリティーオークションが京橋高架下のミカレディー2階にて開催される。
土、日、月の3日間で月曜は2時から開札予定である。
60軒近くの加盟画廊が出品する事で従来の京橋界隈オークションより多様な作品が500点近く出品される。
同じ時期に東京国際フォーラムでもアートフェアーが開催される。
また土曜日2時からGTUにて個展を開催中の岡本氏によるピンホールカメラのワークショップが開かれる。
ご興味のある方はオークションで入札し、ギャラリー椿で個展とワークショップを楽しみ、その後アートフェアーに出掛けると言う盛りだくさんの一日を過ごしたら如何だろうか。

8月6日

この暑さはいったいなんなんでしょうか。
外に出るだけで眩暈がする。
この暑い中で画廊のピンホールカメラのワークショップは皆さん楽しんでいただけたようです。
陽の光が強すぎて黒くなりすぎたりで何度も失敗しながらもそれぞれ力作が撮れたようです。
浮かび上がってくる画像に一喜一憂しながら、子供の時に帰ったような皆さんのうれしそうな顔が印象的でした。

8月7日

韓国で山本麻友香の大作を購入したマダム・リーが画廊に寄ってくれた。
注文で奈良美智と村上隆の作品を探しているので用意しておいてくれとのメールが先に入り、何とか用意は出来たが、あまりの価格の高さに驚いてしまった。
この価格なら私のところの作品がたくさん買えるのにと思うのだが中々そうはいかない。
注文なので仕方が無いが、あまり人気作家ばかり追いかけないようにと釘をさしておいた。
その後東京アートフェアーを案内した。
たくさんの人で賑わっていたが、若い人中心であまり売上には結びつかないようだ。
小山や西村等人気作家を抱えるオーナー達も海外のアートフェアーに比べてどうしてこうも売れないのかと私にこぼしていた。
その中で目立ったのが、気味悪系の絵であった。
こうした作品を並べているブースは多くの人で賑わっていて、赤印もたくさんついていたようだ。
癒し系が主流の中、こうした現象は興味深かった。
尤もこれほどではないが、私の所でも恒松正敏、開光市といった個性派作家達に根強いファンがいる事を考えると驚く事ではないのかもしれない。
今ひとつ目立ったのは、古美術、日本画、近代洋画といったところは閑散としていて、こうしたフェアーでは場違いな感じがしてならなかった。
価格も高いのだろうが、若い人の感覚に合わなくなっているのは間違いない。

8月9日

日曜日に大阪の国立国際美術館の館長に就任した建畠晢氏のお祝いの会があって出席した。
その折何人かの方が挨拶に立ったが、その中でも一際目立ったのが草間弥生であった。
ピンクの髪にピンクの衣裳だけでもその存在感は圧倒的で、前衛芸術家の草間ですから始まり、淡々と建畠氏の業績を称えつつお祝いの弁を述べた。
話の内容は紋切り型で通り一遍の話なのだが、そうした決り文句でも彼女が話すと聞き入ってしまうから不思議だ。
表情を変えずにひたすら喋りつづける所に多少違和感を感じるが、しっかりした口調で話しているのを聞いていて、失礼だが精神を病んでいるようにはとても思えなかった。
その後に祝辞を述べた横尾忠則氏や詩人の高橋睦郎氏もそれぞれに相当インパクトのある方達なのだが、彼女の前では形無しですっかり彼女に食われてしまい、横尾氏などは何で彼女の後に喋らなくてはいけないのかと言いつつ、支離滅裂な話をして途中で降りてしまったくらいであった。
岡本太郎もそうであったが、草間弥生には体中から発する強烈なオーラがあるのだろう。
主人公の建畠氏も霞んでしまうほどに会場が草間オーラに満ち溢れた一夜であった。

8月10日

京橋界隈オークションに代わり実施された新美術商協同組合オークションは思ったような成果が上げられなかった。
今年の夏の中でも一際暑い日が続いた事もあってか、来場者が少なかったのが大きな要因となった。
同じ会期で開催されたアートフェアーは多くの人で賑わっていたのだが、外に出るのも億劫なくらいの暑さではその人たちがオークション会場まで足を運ぶ気にはならなかったのだろう。
とは言え、昨年までの京橋界隈オークションも同様の酷暑の中実施されて、そこそこの成績をあげていた事を考えると、別の要因があるのかもしれない。
京橋界隈に加盟している画廊は多い時で20軒、新美術商の加盟画廊は50軒を超える事からすれば、当然集客力は新美術商の方が勝っているはずなのだが、京橋界隈のように全員が手弁当で運営するのに反し、一部の役員だけに頼って集客に努力をしない結果がこのような結果を招いてしまったように思う。
今回の失敗で組合員から批判の声もあがるだろうが、京橋界隈もそうであるように一軒の画廊でできない事をたくさんの画廊が集まる事で可能にするわけで、組合事業もディーラーズオークションのみではなく、いろいろな美術普及のための活動を批判を恐れることなく実施すべきだと思っている。
自分の画廊運営は一生懸命やるが、組合事業となると人任せの組合員があまりにも多い。
組合に入る動機が交換会だけと思っている人も多いのだろうが、もう少し全体の事業に対する組合員の責務があることを自覚してもらえないだろうか。

8月11日

美術愛好家の集まりである美学舎の代表澤登さんが長年私どもで発表している小林裕児さんのアトリエ訪問の記事を送ってくださった。
美学者の創立メンバーの殆どの方には私どもは大変お世話になっていて、画廊でのトークショーなど企画でもお手伝いをさせていただいた。
メンバーも100名を超え、顔ぶれもだいぶ変わってしまったこともあって私も疎遠になっていたが、写真を見ると懐かしいお顔もあり、またご縁ができればと思っている。
恒例の美学舎マイコレクション展も8月の21日から27日までギャラリー日比谷にて開催されるので是非ご覧頂きたい。

だいぶ長くなるが小林裕児アトリエ訪問記も転載させてもらった。

小林裕児先生 アトリエ訪問

6月27日池袋集合、今回は、藤井さんの企画で、藤井さんの所属するサラリーマン文化芸術振興会(サラ文)は大八木会長以下7人参加合同開催(総計15人)。地図をもらったが山の中で小川町から乗った地元のタクシーも道を間違えての到着。

緑に囲まれた周囲には全く家のない場所。96年に秋川から移り住んだ。隣にも建つはずであったが、無くなったと。そのため緑に恵まれてありがたい、裏山では本竹がとれて、美味しいと。(後で手料理がでる)
小林氏は、話に先立って氏の画集を新旧2冊組用意しそれを見ながらの講演。
何故今日になったかの絵の変遷とその時に考えかたについて語って頂きました。

氏は若いころはベラスケスに憧れていたが、66年のピカソ展に感動したと。そして絵の道に。68年芸大に入るが、同期は50人ほど居たが、智内兄介、辰野登恵子、など画家で暮らしているのは、10人程度。画家になったのは少ない。しかし、それでも他の学年より多い方だ。当時は学園紛争の最中で、大学で絵を描くような状況になく、これが返ってって良かったのではないかと。それで田口安男先生のところで、本を片手にテンペラを描いてみたら見事に出来た。結局30歳でやっと絵「ヤギ」が出来た。しかし、ここで徹底的に技法を学んだ。メディウムの卵と下地の関係とか。更に高橋由一のウエットインウエットの手法、藤田の下地(水性多孔質)の研究などキャンバス、下地にいかに絵の具を安定させるかを人一倍やった。89年までテンペラで描いた。テンペラで全面焦点、全てを描き尽くす。鈴木基一等琳派的なもの。空間を浅く。これは日本人の感性と思った。高橋由一を見ても日本画的で抜きさせならない平面絵画。(氏のこのころの作品はボスを思わす、ややシュールの絵であった。)この後、技法としては墨・ニカワ等の研究もした。
 氏はこのとき、此処で徹底的に技法を勉強、世の中の流から別の世界にいて、絵を余り発表しなかった、むしろその方が良かったのかも知れないとも。
87年ギャラリー椿で初個展、その時藤井さんが買ってくれた。
80年からの絵の仕事は 日本画的だが、キャンバスの上に、カーボン紙で形を写して、色・形を決めていく。全く偶然性を排した手法を取り入れた。今までの全面塗り込む意味を自分で確かめた。
テンペラを描くようになってから、絵の定着のことなどが身についてきてカンバスで無く自分で下地を作ってやった。92〜3年はテンペラで学んだ浅い空間を意識しそれを追求。
93年テレビ出演、人前で絵を描く。これをやったとき、自分の中にこんなことへの適応性があったのかと感じた。この年の作品「海中散歩」は物体が地面から離れた状態、私達が通常見ているのとは全く異なった空間(水中)における表現をした。点を全面に置くことで、画面全体に痕跡を残す。何故かそうしなければいけない気持ちになった。

95年第39回安井賞受賞、これは後で聞いたが1票差と。しかし、賞を取って終わってみたら皆が今年はお前しかなかったなといっていた。議論を終え客観的に見て、それを皆が感じた。(公募による一発でなくこのような推薦制の賞も必要ではないかと、無くなったのは惜しいと)
 この年、オーム、阪神淡路大震災と時代の影響を私も受けたのだと思うがユーモアがないと言われた時代。この頃私の絵には顔がない時代であった。立木を使った立体絵を桜の木や栃の木のウロを使ったものも作った。丸木舟なども作った。
96年頃から布に興味。アフリカの布、東北の蚊帳(これは寒さよけ)に使ったものに染色、ドローイング、タブローを制作した。タイシルクなど買って置いておき、気に入ったものを使って作品を作っている。布にエンコスティック(蜜蝋・顔料)で絵を描く。
また、自分で顔料屋とはなして、ミューグランド(合成樹脂下地:多孔質で削りやすい)
アクリルエマルジョンなど下地、技法には何時も工夫をしていた。

演劇は出来るだけ週に1本は見るようにしている。1999年から200本は見たことになる。大竹しのぶ、野村万斉等が好きである。その中なら色々なものを吸収することに心がけている。この9月3日から、ライブペインティングを行う。音楽・ダンサーとのコラボレーション。ライブの緊張感がいい。齋藤哲氏(ジャズ)とのコラボレーションもしている。表現行為は絵も同じだと思う。場が与えられると共通感が出来て大変良い。手探りでやった冒険で他の面から自分の仕事が見えるようになったと。
 さらに若い定職が無い頃は絵本もやったと絵本を見せてもらう、これは一部海外で出版されていると。

好きな作家はショベケーブの作者、白隠、池大雅。

教育
今女子美、武蔵美などで教鞭を執っているが、絵画力をつけるためにムービングといって、動いている人間をスケッチさせている。3時間3週間みっちりやると様になってくる。今のデッサンの写真から取ったものはデッサンとは云えないと思う。もっと基礎をやらねばと。教育に対するものは熱く、厳しい。

壁一面にデッサン帳

スケッチブックは棚一面数百冊置いてあり、全て布で表装してある。特に布を使ったスケッチブックは秀逸であった。氏は、自分は94年頃からスケッチブックを1冊/週間のペース、10数枚/日の割合で描くことにしている。毎日描くことで、創作活動に日常からすんなり問題なく入れるように心がけている。心にとまった、創作の源の思いつきデッサン。

アトリエ木工所を覗く。
キャンバス代わりにMDF(木のチップを固めた板材)を使うのでそれを切るカッター。
下地にはミューグランド(女子美の研究室で開発したもの:女子美、多摩美で売っている)を使用。
  マチエール、等や 画材、技法で話が盛り上がる。パネルソー(ベニヤのカッターで日曜大工屋で使うような大きな物)またチェーンブロック(こんな作家は初めて)

話の間美しい奥さんが山形のサクランボ佐藤錦を山ほど更に、裏山の取り立ての本竹のタケノコの煮付け。この辺取りたての甘いトウモロコシを運んできて頂いて、それを食べながら話を聞くと言う豪華。奥さんが氏の額作りをなさるとのこと。残念ながら奥さんは懇親会欠席であった。

懇親会

終わって 懇親会は寄居の喜楽 氏のファンで氏の作品展をこの料理屋でやったという女将はアーツ好きで氏の作品も至るとことに飾ってある。美味しい料理を氏の顔で大変安くして頂いた。懇親会では全員の一言自己紹介と懇談。
終わったのが7時頃、家に帰ったのは相当遅かったのではなかったか。

感想
先生の話を伺って、技法における飽くなき追求心創意工夫。演劇、音楽などあらゆる表現への好奇心そこから吸収する柔軟性、これはあるいは学生の時型にはまらないで、自分の勉強をしたためではないかと思われる。追求心、好奇心、柔軟性が先生の芸術を幅広くしていく原点と感じました。

 (澤登丈夫)

8月12日

ドイツから来られたというご夫婦が鈴木さんの作品を買ってくれた。
案内の方が他の画廊へ連れて行くつもりを間違って私のところに連れてきてしまった。
運がいいのか、縁があったのか入ってくるなり鈴木さんの作品を一目で気に入ってしまった。
そんな偶然を日記に書こうと思っているうちに、新宿の画廊の頃にたまたまやって来た人の事を思い出した。
女の方だったが行き先を間違えて慌てて次のバス停で降りたところ、そこがうちの画廊の前のバス停だったのがそもそもの始まり。
その方はマンションを買う予定があり、お父さんから譲り受けた絵が資金の足しになるかどうか、どこかの画廊に相談をしようと思っていた矢先であった。
降りた目の前が偶然画廊だったので渡りに船と画廊に入ってきたとの事。
どんな絵かと聞くと、かおるという多分女性が描いたよくわからない絵なのだがお金になるかとの相談だった。
大抵はこうした話でいい話はないのだがもしやと思いつつ家を訪ねる事にした。
高をくくっていったところ、そのもしやだったから驚いた。
しわくちゃの新聞紙に包まれたキャンバスのままの作品はなんと山口薫の傑作であった。
お金になるでしょうかと不安げに尋ねるお客様に、これは是非お譲りいただきたいとそれなりの価格を提示させていただいた。
黙ったまま何も言わずに時間が過ぎた。
しばらくたって、他にもたぶん贋物だと思いますが印象派の絵があるのですがと言う。
二匹めのどじょうはそうはないと思いつつ見ると、壊れかけた額縁に入った日本画が出てきた。
どこが印象派なのと半ばあきれながら見てみると、なんと堂本印象の絵だからまたまた驚いた。
知らないというのは恐ろしい事で、印象派の人が漢字で印象と書く筈ないじゃないですか。
笑い話みたいだが本当の話である。
こちらは専門でないので直ぐには査定できないがそこそこの値打ちがあることを伝え、後日連絡する事で帰ることにした。
こうしてこの作品を頂く事になったのだが、その方はお父様から何か入用な時にはこれを処分しなさいと言われてはいたが、半信半疑たいしたお金にはならないと思っていたらしい。
あらためてお父様に感謝されたそうだが、私の方はよくぞバスを間違えてくれたと神に感謝である。
暑い夏、休まず働いていると良い事もある。
またまた神に感謝。

8月13日

明日から一週間夏休みです。
日記でも紹介した安曇野にあるYさんの個人美術館を訪ねてみようと思っている。
近くに彫刻の萩原碌山美術館などもあり、のんびりと美術館巡りを楽しむつもりだ。
また友人が昨年からこの辺りで大きな畑を作って野菜作りをしているので、弟子入りをしていろいろ教えてもらう事になっている。
私も河口湖に小さな畑を持っていて20種類ほどの野菜を作っているのだが、野菜作りとは名ばかりで殆ど人任せで作っていると言うより、出来たものの収穫専門で雑草取り一つしたことがない。
友人にはそういう人間は野菜を語る資格がないと冷ややかな目で見られている。
この歳になると自然回帰に向かうのか他の友人知人達も東京の家を離れ、東北や千葉などで農業にいそしんだり、園芸に凝ったりしている者が多い。
帰りには入浴剤で名高い白骨温泉で汗を流すつもりでいる。
温泉と言えば山梨の笛吹川フルーツ公園にある「ほったらかし温泉」の露天風呂から見る夜景は、日本三大夜景に数えられるほどの絶景だそうで、こちらにも行ってみようと思っている。
この温泉の新しいところが「あっちの湯」で、古い方が「こっちの湯」と言うそうで、名前からしてユニークで一度行ってみたいと思っていた所である。
温泉と畑仕事すっかり年寄くさくなってしまった。

8月14日

鈴木さんの個展の最終日にIさんが見に来てくださった。
若手作家を中心にコレクションされている方で、一時大病され大変心配をしたのだが見事に回復し、元気な顔で画廊の個展を見にきて下さるようになった。
以前から喉にポリープのようなものが出来ていて色々なお医者さんに見てもらうがよくわからず、結局は腫瘍がある事が判明し手術をする事になった。
その手術の直前に画廊にやってきて買っていただいたのが鈴木さんの作品であった。
元気になった今だから言えることだが、おそらくご自身も不安な気持ちであったろうし、私も正直言ってまだ若いだけに病状の進行がとても気になっていたのだが、そんな気持ちを振り払うかのように新作を2点買っていただいた。
そのまま病室に飾りたいと言う事でお持ち帰りいただいたが、生死を目の前にしてよくぞ買ってくださったと涙が出るほどうれしかった。
鈴木さんの作品を病室に飾り、苦しい闘病と術後のリハビリの中、心を癒す役目を果たす事ができれば幸いと思っていたが、再び元気な顔で画廊にお越しいただいた時は、多少はお役に立てる事が出来たのではとこれほどうれしい事はなかった。
まだお話するのが不自由だが絵を見るのには言葉はいらず、私の気持ちが通ずるのか私がいいなと思う作品を必ず買って下さる。
今回もまた私の好きな鈴木さんの作品を買ってくださり、あらためて入院前に買ってくださった感動が甦ってきた。

8月24日

夏休みも終わり昨日からはギャラリーコレクション展が始まった。
休み明けでお客様に来ていただけるかどうか不安だったが、珍しい作品が出品されたせいか多くの方にお見えいただき、それも大変熱心に見ていただきほっとしている。
中本達也の傑作や菅創吉の最初の個展の作品、難波田史男の水彩ならではの色感から生まれた逸品、駒井哲郎の代表作「束の間の幻影」等など物故作家の作品から、私どもで発表をしている作家達の初期作品など普段展示していない作品が並んでいる。
毎月のように新作展があって、こうした作品を紹介する機会がないのだが、物故・現存それぞれの若い時期の作品を相対的に見ていただく事で、若く無名の時でも心に残る作品を描いた作家達の溢れでる資質を感じ取っていただけるといいのだが。

50点余の出品作品の中から先ずは難波田史男の作品を紹介する。

牧場で働きながら晴耕雨読の生活を夢見て北海道を訪ねた時に描かれた作品の一つと思われる。
この時期彼の心は昂揚しており、先般開催された東京ステーションギャラリーでの没後30年展の折のカタログからこの作品に相応しい彼の詩を見つけた。

   
   
ぼくは 大地を 空を この自然を  
   
そして ぼくの身近なものを愛する  
   
はるかかなたに 希望を求めない この町の夕映えを愛する  
   
    
ぼくは心をこめて描くだけだ
 
この時 ぼくは本当に生きている時なのだ
 
 
ぼくは一人になった 内部は開放された
 
ぼくは考える ぼくは見る ぼくは感じる
 
 
生きることはすばらしい
 
 
ぼくはもはや孤独でも  
   
なくなってしまった  
史男のノートより
   
   
   

この作品を描いた3年後に史男は瀬戸内海にてフェリーより転落溺死する。
享年32歳であった。

8月25日

台風が夕刻には関東地方に上陸するらしい。
多分誰も来ないのではと思っていたら、雨でびしょ濡れになりながらも何人もの方が見に来て下さった。
花も嵐も踏み越えて、好きな方にはかえって自分の時間を楽しむ絶好の機会かもしれない。
丁度、時を同じくしてコレクターの集まりである美樂舎のメンバーによるマイコレクション展が銀座の画廊で開かれている。
それぞれが自慢の作品を披露して多くの人に見ていただこうとの趣旨で始まったが、今年で14回目を迎える。
私のように長い間画廊をやっていれば当然殆どの作家を知っているはずが、こんな作家もいたのかこんな作品もあったのかと驚かされるし、大変勉強にもなる。
また懇意にしているお客様の好みは大体分かっているつもりが、こんな作品を持っていたのかと吃驚する事も多い。
私のところのギャラリーコレクション展同様に普段見る事の出来ない作品が並んでいるので、是非一緒にご覧頂くようお勧めする。
今週の土曜日まで数寄屋橋のガード横のギャラリー日比谷で開催されている。

8月26日

今回のギャラリーコレクション展では初めてお目にかかる方が多い。
聞いてみると美術雑誌の広告を見て来たとの事。
頼まれて美術雑誌に広告を載せる事はあるが、その反応は殆ど無いと言っていい。
作品写真を掲載してもまず売れたためしがない。
一般受けする絵や有名作家の絵ならともかく無名の新人であったり、個性的な作品はこうした広告で告知をするのは難しいのかもしれない。
ところが今回はどうした事か関心を持ってお越しいただき、熱心にご覧いただき、作品も購入していただいた。
確か2月に開催した渡辺貞一展の時も今回と同じように広告を見て多くの方が遠方から来られたり、お問い合わせを頂いた。
こうしてみると、物故作家の珍しい作品を紹介すると大きな反響があることが分かる。
伺ってみると、中本達也や小貫政之助の作品を持っておられる方や難波田展や菅創吉の遺作展を見て感銘を受けたと言う方が多い。
現存作家と違い、そんなに見ることのない物故の作品はこうした情報を出す事で大きな反響があることが分かった。
とは言え、美術雑誌の発行部数は他の業界の雑誌に比べると微々たるもので、聞くところによると全部合わせても10万部程度らしい。
以前にあるコミック週刊誌の企画に協力した事があるが、その雑誌は毎週400万部発行すると聞き驚いた事がある。
それほどでなくても、ある方から飛行機に関する絵の展覧会の広告を美術雑誌ではなく、航空機マニア専門の雑誌に出したところ驚くほどの反響があったと聞いた。
その雑誌は20万部を発行するとの事で、模型マニアから飛行機乗りや本物の飛行機ファンまでたくさんの読者がいて、根強い人気があるのだそうだ。
これだけ画廊があり、美術館や百貨店の展覧会にたくさんの人が訪れるのにもかかわらず、こうした美術雑誌の発行部数が伸びないのはどうしてなのだろう。
美術情報が趣味と言うより知識となってしまっている事に問題があるのかもしれない。
コレクター拡大への道はまだまだ険しそうだ。

8月27日

山本麻友香の新作版画が好評だ。
10月にソウルにて開催される「日本現代版画特別展」に出品予定の版画作品なのだが、画廊に来られるお客様にお見せすると皆様こぞって買っていただける。
さすが版画科を専攻しただけあって、銅版画ならではの黒の濃淡の表現がとても綺麗で、油絵と同じ図柄にもかかわらず別の表情を見せてくれる。
部数の相談を受けた時に、20部限定にして足りないくらいが次の新作の楽しみに繋がるのではと言ったのだが、これほどとは思わず、あっという間に絶版になってしまうかもしれない。
来年の秋には私どもとオランダの画廊で同時期に個展開催の予定だが、その反響が今から楽しみだ。

8月30日

昨日遅い夕食に近い昼食をとっていると、隣の席に高校時代の友人T君がいるではないか。
彼は医師で自民党選出の都議会議員となって活躍している。
衆議院選挙公示日を翌日に控え銀座でのんびりしている暇などないはずなのだが、聞いてみると、翌日からの選挙戦の打ち合わせで同僚議員と待ち合わせをしているとの事。
そうこうしているうちに、同僚の議員が現われ紹介された。
同じ自民党選出の女性議員で、是非画廊に行ってみたいとのことで、打ち合わせ後二人で寄ってくれることになった
選挙や郵政の事、石原知事の事など色々とミーハー的に聞いてみたかったのだが、そんな話はかけらも出ず、熱心に展示作品に見入っていた。
翌日の忙しさを考えるとそんな事をしている場合ではないと思うのだが、特に女性議員は一つの作品に魅入られその絵の前から動こうとしない。
山本麻友香の旧作で、暗く悲しそうな少女の顔が描かれているのだが、目に涙を浮かべながらその絵をじっと見つめる。
兎に角気に入ったようで、その作品を購入してくれることになった。
先日も、音楽家のお客様が山中春雄の作品の前で、哀しい絵ですねと言って涙を流すのを見て心を打たれたが、今回も一つの絵に初めて出会ってこれだけ感動してくれる事をうれしく思った。
私達から見ると生臭い政治の世界に身を置き芸術などとは無縁の人達と思っていたのだが、こうして長い時間絵を見つめ、静かに癒される時間を持ってくれた事にほっとする思いがした。
今日からはいよいよ本番、公認問題などややこしい選挙区を抱えているようだが、暑さに負けないよう身体に気をつけて選挙戦を戦い抜いて欲しい。

8月31日

8月も終わり。
台風の後、過ごしやすい日が続いている。
多少のんびりさせてもらったが、9月からは展覧会が目白押しで忙しい日が続きそうだ。
来週からその第一弾として舟山一男展が始まる。
舟山さんのとの付き合いも長く、個展も1984年の個展以来11回目となった。
よく作家さんに皆さんは自分の足跡が確実に残せていいですねと言う。
私達は作家の作品が目の前を通り過ぎていくだけで、形として残っていくものはない。
そこで私は自分の足跡はどれだけの展覧会を重ねてきたかだと思っている。
それも同じ作家の個展をどれだけ続けてこれたかが、画廊の足跡であり、勲章だと思っている。
一人の作家とどれだけ長く付き合えるかは、人と人との信頼がそうさせるのであって、作品の良し悪しやどれだけ売れたかだけではない。
勿論、最初は作品に惚れて付き合いが始まるのでどんな人柄かはわからない。
まずは作品に惚れ、次に人柄に惚れるところから私の付き合いは始まる。
作品はいい時も悪い時もあるし、人だって長い間には変わってくるもので,そんな中終始変わらずお付き合いでできるのは結局その人柄である。
舟山さんもそうした作家の最右翼かもしれない。
謙虚な人柄は最初の時から変わらず、これだけ長い付き合いでも控えめでおごるところがない。
3年程前に大病をし、生死の境を乗り越えて現在があるのだが、その時も簡単な手術だと言って私に気遣わせないようにして、後で聞いてびっくりしたものである。
病後、舟山さんの作品は原点に還ったように思う。
暗く、哀しい絵なのだが、どこか澄んだ世界があって、哀愁をかき立てられ、ほろっとさせられる。
相変わらず照れながら、ほんの僅かな時間だけ居心地悪げに画廊に現れる舟山さんの姿が近々見られる。

9月1日

9月となり、世間で言う美術の秋到来である。
美術の春でも夏でもいい筈なのだが、どうして秋なのだろう。
おいしい旬の食物や果物が一杯出廻る食欲の秋とか、体育の秋と言って秋晴れの中一斉に開かれる運動会などは相応しいと思うのだが。
日展や各団体展が秋に集中するからなのかもしれない。
とは言え、春の日展や秋以外に開催する団体も少なくはない。
それでもこうしたキャッチフレーズがあるとその気になるからおもしろい。
私達もさあ美術の秋を迎えるから頑張らなくてはと気合が入る。
本当は一年中気合を入れてなくてはいけないのだが、凡人はそうは続かない。
そういう意味でも暑い夏に疲弊した身体やだれ気味の気持ちを引き締めるには格好のフレーズである。
日本人は四季折々にそれに相応しい行事や祭り事があって、飾り物やお供えをして気持ちを新たにその季節を迎える。
絵画や陶器も季節ごとに飾り替えたり、祭り事や来客のある時にそれに相応しい絵画を飾ったりと、その時々を風雅の心で楽しむ風習があったのだが、そうした事も少なくなってしまったようだ。
時間とお金の余裕がなくてはできない事だが、それ以上に心の余裕があったからに違いない。
我々美術商にとってはこうした風習はとても有難い事なのだが、床の間と言った展示スペースも少なくなった今ではそうした事も難しくなってしまった。
周囲の景色や風物にもすっかり季節感が乏しくなってしまったが、暦の上では秋近しである。
来週からは新たな展覧会も始まる。
気持ちを引き締めて頑張らなくては。

9月3日

熱心に見てくださるご夫婦がいた。
奥様の方は二,三気にいった作品があるようで、さかんにご主人に薦める。
ご主人の方は静かに順番に作品を眺めている。
あまりに熱心に見ておられるので声をおかけしたところ、ホームページで見たのだがその作品はありますかと尋ねられた。
残念ながらその作品はなかったのだが、同じ作家の別の作品を買っていただく事になった。
その作家は来年ある美術館で発表する予定があることをお伝えしたら、実はと言う事で何とその美術館の館長さんである事が分かった。
謙虚に名乗る事もせず、個人として自分のところで開催する作家の作品を求めてくださった事がうれしくて、日記で紹介させていただく事にした。

私が尊敬をしているある美術館の館長さんのインタビュー記事を引用させていただく。
美術館の予算がないことに関連しての質問の中で、

「私もポケットマネーで作品をちょくちょく買うわけだし、だから美術界に関わる人はそういう気持ちを持つ事がとりあえず重要でしょうね。自分達が関わっている世界なんだから、関係者ずらして展覧会にフリーパスで入るとか、何でもフリーパスで入るのはいいのだけれども、関係者である事の義務というものは当然あるんですね。
やはり維持するという事ですよ。何らかの意味でサポートしなければいけない。だからカンパみたいなものが必要であれば皆でやらなければいけないし、この間もある所でチラッといったのだけれど、東京都現代美術館が全く購入費がないのであれば有志を募って・・・例えば100人の有志が一人1万円出したってそれで 100万円でしょ。
100万円あればコンテンポラリーの作品を買えない事はないんですよ。それを買って東京都現代美術館に寄贈するとかね。そういう事があってもいいと思うし、そういう風に考えていかなきゃいけない時代だと思いますよ」

こうした身銭を切って美術に関わり、論評する人たちこそ本物だと思っている。

9月6日

先日のギャラリーコレクション展に出品した呉亜沙のウサギがブランコに乗っている作品をT先生の奥様が購入してくださった。
渋谷の文化村で初めてこの作品に出会った。
その時にはこうした作品が新しい流れの一つなのだろうかと衝撃を受けるとともに、まだ可愛らしさが先に立ってなじめないところがあったのだが、この作品に再び韓国のアートフェアーで出会うことになった。
会期の最中、毎日この作品を見ているちに、ウサギのおなかの穴から覗く大空が大きく広がり、まるで寝そべって空を見上げているかのように雄大で晴れ晴れとした気分にさせてくれた。
可愛らしさだけではない、ウサギを通して聞こえてくる彼女の言葉が私を虜にしてしまった。
早速彼女に個展の依頼をする事にした。
ギャラリーコレクション展には私が好きな物故の作品や取り扱っている作家達の旧作などを並べ紹介させてもらったが、出会うきっかけとなった彼女のブランコの作品はどうしても忘れる事が出来ず、この機会に手に入れることにして展示をさせてもらった。
他のお客様にも大変関心を持っていただいたが、今回はひとまずT先生のお宅に納まることになった。

9月7日

台風の被害が拡がっている。
アメリカほどではないが、沖縄や九州の人たちは毎度の事とは言え本当にお気の毒である。
今週から大分の画廊で私のところが紹介をした作家の展覧会が始まったが、展覧会どころではないかもしれない。
15年程前に夏休みに小笠原に出かけたことがあったが、日頃の行いのせいか13日間の滞在中3回も大型の台風が発生し大変な目にあった事がある。
出来たてで生きがいいと言うか、何ミリバールというのも極端に低く、それは形容しがたいくらいすごい台風だった。
その一つは日本列島を縦断し、青森の収穫前のりんごが全て落ちてしっまたぐらい北に行っても猛威振るった台風だからそのすごさは半端でなかった。
台風が去った後でも海は余波で荒れていて、ようやく落ち着いた頃に次の台風がやってくると言った具合で、こんな遠くまで来て澄んだ海で一度も泳げないのかとただただ落胆の毎日を過ごした。
娯楽施設もなく、酒も飲めない私は民宿にある本は全て読み尽くし、後はひたすら寝るだけの毎日だったのが今では懐かしく思い出される。
小笠原で驚いたのは、ゴキブリがとてつもなく大きく、これが 向かって飛んでくると大きなクワガタが飛んでくるようで男の私でもすくんで動けなくなってしまう。
それとお寿司にマスタードがついているのにも驚かされた。
島寿司といって白身の魚を漬けにしてあるのだが、その間になぜかワサビでなくマスタードがこってりと入っている。
恐る恐る食べてみるとこれがおいしいから不思議だ。
長い間米軍の占領下にあって洋辛子に変わってしまったのか、はたまた新鮮なワサビが手に入らず代用として使うようになったのかは定かではない。
画廊も台風の影響か来る人も少なく、暇に任せて思い出話を書かせていただいた。

9月8日

常連のMさんが画廊を閉めて帰ろうと思っている矢先にやって来た。
Mさんは国立女子大学の大学院を出て小学校の家庭科の先生をしている。
女子大でも大学院は男子が入学できるのを初めて知った。
Mさんは顔の作品のコレクターとしてよく知られている。
初めて買った作品が名前は忘れたが、外国の現代美術作家の顔の作品でその価格は当時の一年間の給料に相当する金額だったそうだ。
それ以来顔の作品を中心に集め始めたのだが、私のところも比較的人物を描く作家が多く、Mさんお気に入りの作家もたくさんいる。
そんな中お気に入りの作家の一人舟山一男の作品を見に来られた。
今回の舟山作品は色を抑えたどちらかと言うと暗く寂しい絵が多いのだが、こうした作風がMさんにはたまらないらしい。
別の作家で既に予約している作品もあって、懐具合と相談しながらうんうんと言って唸っている。
参ったと言う感じで帰られたが、多分お気に入りの作品を予約しに戻ってこられるに違いない。

9月9日

大学の時の友人I君が久しぶりに画廊に現れた。
彼は5年前の春に脳梗塞で突然倒れた。
蓼科の別荘の玄関前で倒れているのを偶然通りかかった人が見つけ一命を取り止めた。
一人だけで来ていて壁のペンキ塗りを終えた後だったのだが、家の中だったら誰にも発見されず命を落としていたに違いない。
その後のリハビリで不自由になった右手足は殆ど回復したが、未だに言葉のほうがうまく喋れない。
それでも顔は真っ黒に日焼けをして、とても大病したようには思えない元気な姿を見せてくれた。
彼は昔からジャズきちがいで集めたレコードは1万枚にも及び、更にはCDが加わると膨大な量となり、以前あまりの重さで床が抜けてコンクリートの床に直した事がある。
毎日1枚づつ聞いたとしても、これだけの量だとレコードだけでも30年近くかかるわけで、更にそれ以上どんどん集めるのだからゆっくり聞いている暇などない。
クラシックもそうだが ジャズと言うのは嵌まり込むと厄介なもので、同じ曲、同じプレイヤーでもその都度違った演奏になるのできりがなく、延々と集めることになる。
彼は自分でジャズピアノも弾くので、リハビリ代わりに丁度いいのだが、レコード集めのほうもストレス解消になっているのだろう。
他にも彼はビデオで興味あるものを次々に録画をし、間に合わないと他所に頼んでまで録画をするから半端じゃない。
こんな風で凝りだしたらきりがないのだが、美術品まではなかなか廻ってこない。
とは言え、自分で絵を描いたりもするし、無名の時の池田満寿夫や有元利夫、ミズ・テツオ等の作品を持っていて見る目は中々のものである。
彼は舟山一男の最初の個展の案内状の作品も持っていて、今回も久しぶりに個展を見にきてくれたのである。
舟山一男も大病した後の個展と言う事を話すと、自分に重ね合わせたのか熱心に見てくれて1点を購入してくれた。
画廊通いもリハビリにいいのでこれからはちょくちょく元気な顔を見せて欲しい。

9月10日

Yさんご夫妻がお見えになった。
お二人とも長い間モデルとして活躍され、現在も熟年モデルとして雑誌やコマーシャルでよくお見かけする。
ご夫婦揃って舟山さんの大ファンで、舟山一男以外の作品には見向きもしない。
たくさんの舟山作品を買っていただくだけでなく、知人友人に舟山作品を持っていただくよう盛んに薦めてくださる当画廊の宣伝部長兼営業部長のような方である。
山形県長井市には舟山さんだけを集めて展示しているやませ蔵と言う個人美術館のオーナーTさんや次々と舟山さんの大作を購入しては公立美術館に寄贈をしている和歌山のNさんなど大変に熱心な舟山ファンが全国におられる。
決して派手に活躍しているわけでも有名大家でもないのだが、地味でも長い間着実に仕事をしているとこうした熱心なコレクターに出会い、支えてくれる事を舟山さんを通じて教えられる。

9月11日

衆議院選挙である。
あれだけメディアで大騒ぎしているのに、画廊の周りは何故だか静かだ。
小選挙区制になって立候補者が少なくなり、街宣車の数も減ったのか「お願いします」の連呼の声もあまり聞こえてこない。
銀座や京橋では住んでいる人が少なく票に繋がらないので候補者も廻ってこないのだろう。
とは言え、我が家の娘はいち早く不在者投票を済ませ、いつもは無関心な息子も投票に行くつもりをしている。
我が家の投票率はいっきに倍になってしまった。
メディアの影響が大であるとともに、何で選ぶかが今回ははっきりしているせいだろう。
小泉首相の郵政解散選挙がこれほど関心を持って迎えられるとは、本人自身も思っても見なかっただろう。
もし思っていたとしたら、稀代の大戦略家と言っていいかもしれない。
神奈川の第4区から出ている自民党の新人候補林潤君は私どもで大変お世話になっているお客様の息子さんである。
おじいさんが洋画家の大御所林武で、彼はまだ若干30歳の若さで自民党の公募に受かって前回の選挙にも立候補をした。
地盤も看板もない中で5万数千票をとったのは大健闘だったが、残念ながら次点となり捲土重来を期している。
真面目過ぎて政治家に向くのだろうかと心配な面もあるが、大学の後輩でもあり、清新な彼に当選してもらい胡散臭い政治を払拭してもらうよう期待している。

9月12日

投票を終えて、綿引明浩さんの新築のアトリエを訪ねた。
田園の面影が残る武蔵野線の吉川駅の近くにあって、ファクトリー風のモダンな建物が一際目立って建っている。
1階がアトリエになっていて、大きな扉を開けると外と一体化したオープンなスペースが現れる。
自動車修理工場をうーんとおしゃれにした空間と言ったらいいかもしれない。
見上げるような天井と、大きく広いガラス窓と言うより壁に囲まれ、今まで持て余していた銅版画のプレス機さえも小さく見える。
これで大型版画やタブローの大作もらくらく制作する事ができる。
2階は生活スペースになっているのだが、生活臭がどこにも感じられない。
空間に溶け込むような白い冷蔵庫と一段高くなったステージのような所に敷かれている寝具ぐらいが、ここに人がすんでいるんだろうなと思わせるくらいで、後はがらんとしていて、壁際の棚に並ぶ彼の立体作品と寝具の横にある間島領一の白いカラスだけがまるで主のごとく居座っている。
話し込んですっかり遅くなってしまったが、帰りに振り返って見ると、夜空の中に大きな行灯がぽかりと浮かんでいるようで幻想的なシルエットに包まれたさすがアーチストのアトリエと感心させられた。
写真で紹介したいがしばらくすると「新建築」で紹介されるそうなのでその時に転載させていただく。
家に帰って開票速報を見ると、昨日の日記で紹介した林潤君が早々と当選確定となっていているではないか。
公募で落下傘の30歳そこそこの彼が小選挙区で大差をつけての当選は、追い風があったとは言え、辻説法など日頃の地道な努力が実を結んだのだろう。
早速お祝いの電話をさせていただいたが、体調を崩してしばらく画廊にも顔を見せなくなったお父様も大変喜んでいて、何よりの薬になったと思う。
これからの国政での活躍を期待している。

9月15日

韓国画廊協会の金会長が来日した。
また来年の韓国アートフェアーへの参加の呼びかけで来られたのだが、相変わらず精力的に動かれている。
今日はこれから洋画商協同組合に出向き、アートフェアーの参加の呼びかけをし、夜には私を含め10画廊ほどのオーナーと会食を兼ねて、アートフェアーの参加要項の説明会を予定している。
もう一つの目的は、美術品鑑定会についての資料集めである。
日本では東京美術倶楽部や洋画商協同組合の鑑定委員会、その他画廊独自で特定作家の鑑定書を発行したり、遺族やその周囲の方達による鑑定会がある。
韓国では画廊協会がその任にあたっているが、まだ歴史も浅く色々なトラブルもあるようで、日本の鑑定のノウハウを詳しく知りたがっている。
因みに、東京美術倶楽部の鑑定委員会では、80名の日本画、洋画作家の鑑定業務を行っている。
鑑定日は毎月日本画、洋画それぞれ1回づつ行い、1点につき鑑定料3万円、鑑定証書3万円、但し藤田嗣冶のみ鑑定料5万円となっている。
最近はテレビでお宝鑑定団などの人気番組もあって、美術品への真贋への関心は高まっている。
真贋についての話は枚挙に暇もなく、贋物が多いのは周知の通りだが、本物が贋物となってしまうこともしばしばある。
作家自身が贋物を本物と断定してしまう事もあれば、作家から直接購入した作品が時間を経て作家に見せたところ贋物と言われるケースも間々ある。
真贋の鑑定はこのように作家自身でも間違えてしまうほどに難しく、鑑定書をどこまで信用していいのか私は疑問に思っている。
勿論鑑定書があるなしで、価格が大きく違ってくる現状では鑑定をないがしろに出来ないが、作家自身が間違えるくらいだから、第三者が公正であるはずがない。
作家物は別として古美術には美術商の鑑定書はつかない。
要は売り手の信用度の問題である。
価格の99パーセントはその店の信用料と言っていいかもしれない。
作家の作品には贋物と思われても仕方がない駄作もあり、そうした断定が難しいような作品は扱わない、疑わしきものは扱わずの姿勢が美術商には必要ではないだろうか。
作家の個展を長い間重ね、その作品を長きにわたって扱っている画商ではなく、作品を右から左に流すブローカー画商が主流のこの業界で果たして信用を勝ち得る事ができるだろうか。
更には、経験のある画商の目が一番確かとは言え、昨今の厳正に判断しなくてはならない監査法人の不祥事などを見ると、利害に関わる人間が公正な立場で物事を判断するのは難しいように思えるのだが。
このようなことを韓国の方たちに話してもお分かりいただけるだろうか。

9月16日

来年の韓国国際アートフェアーKIAFの説明会に出席した。
第6回を迎え、さらに規模を大きくして開催するとの事で、フランス現代美術特別展を企画しヨーロッパからも40軒ほどが参加するとの事であった。
羨ましいのは、現政権が文化立国としての政策を打ち出していて、3000万円の補助がKIAFに贈られ、更にはアートバンクという政府が美術品を買い上げる制度が出来ており、KIAFに出品された作品の中から1000万円を買い上げてくれるとの事であった。
他にも企業が美術品を購入した場合には、一点につき50万円までは免税となり、美術館に寄付した場合にも免税になるという至れり尽せりの仕組みとなっている。
企業の支援も大きく、ハナ銀行頭取がKIAF組織委員長につき全面的に協力をするそうで、美術品を資産として持つべく銀行がアドバイザーとなってコレクションのお手伝いをしていく事も業務の一つとして進められているそうである。
街には大きな彫刻が溢れているが、これも大きな建築物には費用の1パーセントは必ず美術品の購入予算をとることが義務付けられているからである。
ここまで来るには、美術業界が一丸となって、行政に働きかけた業績も大きいが、やはり為政者の姿勢だろう。
小泉首相にも是非この事を知ってもらい、貿易立国から文化立国に転換してもらえないだろうか。
アニメやゲームソフトの分野で世界を席捲しているこの時期を日本文化を世界に知らしめる絶好のチャンスと捉えて、行政の文化支援をお願いしたい。

9月17日

贋物の話で面白い話がある。
私が大阪の画廊に勤めていた頃の事だから、30数年前の話でもう時効になっているので書かせてもらう。
丁度、今度の選挙で話題になった尾道での話である。
あるデパートで大きな展示会を開き、その折、尾道の有力者に梅原龍三郎の10号の風景画を納めたことがあった。
尾道には著名な画家K先生がおられ、コレクターとしても名高い方だった。
梅原龍三郎や林武、須田国太郎などその当時の大御所とも親しく、多くの作品を持っていた。
梅原の作品を手に入れたお客様は早速にK先生のところに誇らしげに作品を見せに行った。
ところがK先生これを見るや否や烈火のごとく怒られ、長い間信用をしていた大阪の画廊がこんな贋物を知人に納めるなんて許せんと言う事で、怒りの手紙とともに作品が戻ってきた。
手紙には、私は贋物は匂いでわかる、これが本物だったら100万円を賭けると書いてあった。
その当時の100万だからすごい金額である。
この作品には梅原先生直筆の箱書という証明書が付いていて本物には間違いない筈なのだが、画廊の信用にも関わる事なので早速に調べる事になった。
その作品の仕入先は梅原先生のパトロンでもあったY画廊で、両画廊主と私で先ずは梅原先生のところに作品を持っていって見てもらうことになった。
先生は作品を見るなり私の作品に間違いないと言って、K先生に電話をしてくれた。
梅原先生が電話で説明すると、K先生は「あなたは自分の作品が分からなくなるほどもうろくされたのか」と切り替えしてきた。
「私が書いた箱書もある」と言うと、「そんな金釘流の下手くそな字をあなたが書くはずがない」とまで言われ、さすがの梅原先生もあきれはて返す言葉がなかった。
頑固者を相手にしてもかなわないと言う事でY画廊の社長が作品を引き取ってくれる事になったが、私はK先生が賭けた100万円の行方が未だに気になっている。

9月18日

友人のお嬢さんが亡くなられた。
まだ20歳になったばかりの若い娘さんで、成人式の晴着も着ることなく逝ってしまった。
一人娘さんだけにご両親の悲しみはいかばかりかと言葉もない。
今年の2月には3日間ほど親しくしている仲間達の美術展に画廊を開放したが、その折既に病に侵されていた彼女にも出品するように奨めた。
中学生の頃から一人イギリスに留学し、高校の頃には美術を目指した時もあって、その時に制作したフォトコラージュを見せてもらったことがあり、とてもモダンで印象に残っていたので、恥ずかしがる彼女を口説いて出してもらった。
以前にも帰国した折に、アーティストの話を聞いてみたいと頼まれ、小林健二のアトリエに連れて行ったことがあった。
彼の話を身を乗り出して聞き入っている姿が脳裏に浮かぶ。
高校を卒業し、希望に燃えて新しい進路に向かう時に100万人に1人というような難病に罹り、2年間病いと闘い、ついに力尽きてしまった。
苦しかった病いから解放され穏やかに澄んだ天使のような顔を見て、ご両親の限りない愛と優しさへの精一杯のお返しを残して旅立って行ったように思えてならなかった。
辛く哀しい事だが天命を全うしたと思い、安らかに眠ってくれる事を祈ってやまない。

9月26日

連休が続き、日記が一週間あいてしまった。
この間、展覧会もなくのんびりさせてもらったが、今日から福島展の始まり。
何気ない人の横顔や立ち姿が飄々と描かれ、ほのぼのとした味わいが見る人を惹き付ける。
絵の具は厚く塗られているが決して重たくなく、かえって軽やかにさえ見える。
子供がいたずら書きしたように自由奔放な絵は展示をしている間も私を虜にしてしまった。
年齢55歳を迎えそれなりのキャリアはあるのだが、東京での個展は50を過ぎてからであったため中央では知られず、殆ど無名の作家と言っていいかもしれない。
高崎在住で、高崎や前橋の画廊で個展を重ねていたが、そこの画廊主がいい作家がいるので是非見て良ければ東京で発表の機会を与えてもらえないだろうかと頼まれ、たいした期待もせずに見ることにしたのだが、すっかり魅せられてしまい個展の約束をした。
いつもだと初めて出会った感動が強くて、その後見る作品にはその時のときめきがどうしても薄らいでしまうのだが、今回は前にも増していい作品で一人悦にいっている。
年はとっていても、私には才能豊かな無名の新人作家に出会ったようなうれしさで今回の展覧会を迎えた。
情報化時代にあって、まだ世の中にはこうして埋もれた才能ある作家がいたのが不思議でしょうがない。
よくぞ私との出会いを取り持ってくれたと、前橋の画廊主に感謝である。

9月27日

先般紹介した安曇野の個人コレクションを展示しているギャラリー留歩で再現・椿会ー椿近代画廊に集った作家たちーが23日から開催されている。
1970年後半から1980年前半まで私の目にとまった作家達を集めて椿会展を開催していた。
殆どが無名の若い作家達だったが、今やその多くが第一線で活躍をしている。
椿近代画廊は今は弟が引き継ぎ経営をしているが、その当時は私が父の後を継いで若い作家達の紹介をすべく企画をしていた。
懐かしい顔ぶれと作品に再会する事になり、画商冥利に尽きる。
Yさんのコレクションにはその当時の画廊で扱っていた作家が殆ど網羅されていて、作家にとっても秘蔵される事なく陽の目を見ることになり喜んでいるに違いない。
Yさんは敢えて美術館とせずにギャラリーとしたのは、美術館とすると来た方が入場料を払わなくてはと思い負担をかけるので、その点ギャラリーはただで気楽に美術を楽しんで頂けるからとの事であった。
REPOSはフランス語で休憩・憩いと言う意味で、それに漢字を充てて歩をとめる・留歩と名付け、美術を身近に楽しんで欲しいとのYさんの心意気がうれしい。
10月の連休には椿会の面々に再会しに行く予定である。

9月28日

川越市立美術館から案内が届いた。
お世話になっている寺田小太郎さんのコレクション展の案内である。
寺田コレクションは再々日記でも紹介しているが、難波田龍起・史男親子始めとする国内作家を中心に400人の作家・3000点にものぼる膨大なコレクションで、その多くは新宿にある東京オペラシティアートギャラリーに寄贈されている。
そのうちの60点をー寺田小太郎の眼からー「心の風景」と題して川越市立美術館で公開される事になった。
寺田コレクションのコンセプトでもある奥深い静かなる心象風景の拡がりを知っていただくいい機会でもあり、小江戸とも呼ばれ重厚な土蔵造りの店舗が立ち並ぶ街の散策も兼ねて訪れたら如何だろうか。
10月8日(土)〜12月4日(日)まで開催される。
多少の招待券はあるのでご希望の方はお申し出を。

9月29日

最近知り合いの画商や知人から有名大家や外国作家の作品紹介やオファーが私のところに頻繁に来るようになった。
個展を中心に独自の路線で歩んでいる(実際は画廊としては当たり前なのだが、業界から見ると異端らしい)私としては見当違いだとは思うのだが、以前にはフジタだ梅原だとブランド作品を扱っていた事もあってか、私のところにもこうした話がくるからおもしろい。
現代美術をメーンに扱っているところでも、目に見えないところでは日本画や洋画のアカデミックな作品を扱っているところは多い。
現代美術や若手作家を中心に企画をしているところは、概ねそれだけでは経営が成り立たない。
自分の目指す方向を維持するためには、そうした大きな金額の美術品を扱い、その利益を企画に廻して何とか首の皮一枚で繋がっているのが現状である。
私もできるだけ自分のところの企画だけで経営を維持できればと思ってがんばっているが、こうしたオファーや処分の話が来ると動かざるをえない。
40年近くも画商をやっていると、古美術商から有名大家を扱う日本画商や洋画商にも親しい友人も多く、オークション会社の社長をやっていた事もあって、査定や処分の話ではお客様のお役に立つ」ことはできるのだが、自分の扱っている作品とそうした作品の価格のギャップにいつも矛盾を感じてしまう。
この大家の作品1点で今開催中の作品全部買ってもらってもおつりがくるのにとか、こんな作品がどうしてうちの作家の作品の何十倍もするんだろうかとか頭を悩ませてしまうが、現実はそうであって認めざるをえず、逆に何十分の一で有名作家の作品より内容のあるいい作品をお世話できるんだと思って歯を食いしばっている 。

9月30日

毎日のようにたくさんの案内状が届くが、その中に目を引く展覧会の案内が入っていた。
松本涼・sculpture展(島田画廊)の案内状の作品に思わず引き込まれた。
木彫に彩色された立像で、アフリカンアートのような民族美術にも見えるし、鮮やかな黄金の色彩は眩しいほどでオリエントの出土品にも思える。
全く名前も知らないし作品も見たことがないのだが、私のところで開催している作家の多くも、こうした一枚の案内状からの出会いが多い。
何の経歴も載らず、紹介の文章もないただ作品写真だけが載っている案内状を見て、ピッとくる直感のようなものでこの作家に会ってみたいと思う。
どこか古いようで新しい彼の彫刻にもピッときたようだ。
来週から始まるようだが一日も早く見てみたいと思っている。

2005年10月〜12月へ最新の日記はこちらご感想はこちらまで

 

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