ギャラリー日記 Diary

バックナンバー(2005年1月〜3月)


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1月5日

あけましておめでとうございます。
今日から画廊を開けさせていただきました。
今年も多くの方にお越しいただきたくお待ちもうしあげております。
早速にコレクターのN様にお越しいただきました。
取引銀行の挨拶回りを済まされ、この界隈の画廊を訪ねたところ、どこもまだ開いてなくて、ようやく開いている画廊にたどり着いたよと言いながら、しばし新年用に展示した常設作品を熱心に見ていただきました。
どこよりも早く画廊を開けたことを一寸だけ誇らしく思うとともに、10日過ぎまでお休みの画廊が多いことに、さすが余裕の画廊は違うもんだと多少焦り気味でもあります。
常設展では昨年暮れに手に入れた駒井哲郎の代表作「束の間の幻影」を同じく代表作の1つである「青い家」とともに展示しています。
著名な画家の代表作を手に入れることは、油絵や日本画では長い画廊人生でもそう滅多にあることではありませんが、版画ですとこうして私どもでも扱うことが可能ですし、個人コレクターの方も出会うチャンスがあるわけです。
30年程前に駒井哲郎の初期の代表作を集めて展覧会をしたことがありますが、今思うと大変な作品が揃っていたにもかかわらず、殆ど売れなかったことが懐かしく思い出されます。
他にこれは著名な人ではないのですが、個展を約束したまま若くして逝ってしまった写真家福田匡伸の最初に私が出会ったフォトグラフィー・オブジェ「エンジェルヘアー・モナリザ」を偶然手に入れることが出来て、これはとてもうれしくて暮れから来られるお客様に次々に見せては自慢しています。
この作品は糸状の塊にモナリザを焼き付けたものですが、カメラのピントが合った位置に立って作品を見るとモナリザが浮き上がってくる不思議な作品で、そうした作品の個展をとても楽しみにしていただけに、その死が悼まれます。
残った作品は全て大阪国立国際美術館が所蔵していて、今後もまず作品が出てくることはなさそうなので、しばらくは自慢しつつも非売でおいておくつもりです。
暮れにもそんな事をお客様に申し上げたら、画商の風上にも置けないとお叱りを受けましたが、しばらくはコレクター気分を味あわせてください。
他にも清宮質文の「火屋の中で」やこれも私が出会った当時の小林健二の珍しい初期作品を展示していますので、是非見にいらしてください。

駒井哲郎
 「束の間の幻影」
福田匡伸
 「エンジェルヘアー・モナリザ」

1月12日

寒い日が続きます。
休み無しが続いたせいか、暮れに風邪を引いてまだ咳が止まりません。
皆さんも気をつけてください。
来週から望月通陽展が始まりますが、それまでは画廊も静かなものです。
また新宿にあるゴッホの「ひまわり」で有名な損保ジャパン東郷青児美術館で未来を担う美術家たち・DOMANI・明日展2005が1月の21日から2月24日まで開催されますが昨年当ギャラリーで発表した山本麻友香と綿引明浩の作品が展示されますのでお時間のある方は是非見に行ってください。
チケットも画廊にありますので希望される方は差し上げます。
そんな事で来週くらいからは忙しくなりそうです。

1月21日

懐かしい作品が手に入りました。
MIZUという名前で現在活躍中の作家の20数年前の作品で、その当時は私どもの画廊で水島哲雄という名前で個展を開き作品を発表していました。
現在の作品とは画風も色合いも全く違っていますが、その当時の傑作の一つで深く透きとおるようなマチエールと画面から漂う詩情が私の心を揺さぶり、その当時が懐かしく思い出され手に入れることにしました。
今はパリの画商と契約して世界を舞台に発表活動をしていて、私どもとは縁がなくなりましたが、京橋に画廊を開いた当時は盛んにこの作家の作品をお客様に紹介をし、ギャラリー椿の礎となってくれました。
開廊時に作っていただいたギャラリー椿のロゴはそのときの感謝の意味もこめて今も使わしてもらっています。
40号の大きな作品でしたが、最近お越しいただけるようになったお客様でこの作家の親友の作品をたくさんお持ちの方がたまたまお見えになり、つい先日その当時のお話をさせていただいたばかりだったこともあり、画廊に飾る間もありませんでしたが、これも何かの縁と早速に購入していただきました。
現在開催中の望月通陽さんもこの作家が染色の人だが天才的にうまい人がいるといったことから出会うきっかけになったことが懐かしく思い出されます。

水島哲雄 風景

1月23日

大阪の江戸堀画廊の武市社長が急逝をされ、金、土曜とお別れに大阪に行ってきました。
私が大阪の画廊に勤務していた折の先輩で、東京に戻り現在に至るまで公私共に良くしていただき、仕事では多くのことを教えていただき、プライベートでもたびたびご一緒に旅行をさせていただいた私の最も尊敬する画廊主であっただけに 、67歳のあまりに早い死は驚くとともに残念でなりません。
目利きの画商として多くの内外の名品を扱い、物故の江戸堀と言えばこの業界では誰一人知らない人はいない大画商であり、その面倒見の良さで多くの画商から慕われている人でした。
ここ数年肝臓を患い、入退院を繰り返してはいましたがここしばらくは小康状態を保ち、亡くなる2日前も車で名古屋の画廊に出かけられたとのことで、周囲の方も突然の死を信じられないのではないでしょうか。
6年ほど前に武市社長は金融関係の方達とオークション会社を設立することとなり、健全でオープンな流通システムを作ろうとの熱い思いで私を誘っていただき、私は長年の恩返しが出来る喜びで参加することを決め一緒に汗を流すことになりました。
しかし、2年程前に当初目指した方向性との違いで意見が対立し私はオークション会社を退くことになり、長年のお付き合いが途絶えることになってしまいました。
それから武市社長も同じように金融関係の創業社長との美術の考え方の違いに悩みながらも会長という役職もあり縁を切れずにいたようです。
私も心配しつつも1年ほど連絡が途絶えていたのですが、昨年ニューギャラリーオープンの折にはお祝いのお花が突然届き、私はうれしくて早速にお礼の電話をさせていただき、久しぶりにお話をすることが出来ました。
その後しばらくたって電話があり、君には迷惑をかけてすまないことをした、自分もその会社とは距離をおくようになったので心配は要らないといった旨の電話だったのですが、そうした気遣いがさすが武市社長だと感激したのが昨日のことのように思い出されます。
これだけの早い死はきっとオークション会社との理想と現実のギャップの中でも引くに引けない立場上のストレスがそうさせたのではないかと悔やまれてなりません。
体調を崩された武市社長に何かあったときには社葬をもってその恩に報いたいと言っていたオークション会社の社長が、病いをおしてまでオークション会社の事業に力を注いだ武市会長の告別式に顔も見せないとは世の無情を感ぜざずにはいられませんでした。
病との闘いも仕事のストレスからも解放され、これからはゆっくりと安らかに眠っていただくよう祈ってやみません。  

合掌

 

1月28日

またまたうれしい作品が手元にきました。
桑原弘明のスコープ「ざくろ」1998年作を手放したい方がいて、画廊に訪ねてきました。
この作品は生のざくろをそのままコーティングして、中にスコープを埋め込んだものですが、覗いてみると夜空に彗星が一筋流れていく作品で、小さな果実の中に悠久の宇宙が浮かび上がり、自分だけが壮大な空間を独り占めしているような錯覚さえ覚えます。
2000年にそれまで制作したスコープの全作品を展示した展覧会が名古屋のCスクエアーで開催されましたが、その時のポスターにもなった代表作のひとつです。
去年の暮から何故か秀作に出会う機会が多くなりました。
昨年の展覧会で遠方から何度も何度も足を運んでくださった桑原ファンの方にまずはお知らせしようと思っています。

桑原弘明 スコープ「ざくろ」 1998年作

2月1日

2月には珍しく物故作家の展覧会を企画しました。
青森の作家で25年程前に亡くなった渡辺貞一という作家の遺作展です。
もう殆どの人の記憶から消え去ってしまった作家ですが、1970年代の絵画ブームの折に一気に火がつき、大人気作家となった一人です。
当時私は大阪の画廊に勤務しており、 手に入れるのに展覧会で行列が出来たほどで、その人気にびっくりしたものです。
そのブームも今回のバブルと同じく長続きせず、オイルショックとともに景気が破綻し、この作家もその大きな渦の中に飲み込まれてしまいました。
そして東京の州之内徹が経営していた現代画廊での個展を最後に64歳のまだまだこれからという時期に胃がんのため亡くなりました。
東京に戻った私は同年代の作家を中心に企画を進めてきたこともあって、そうした作家ともすっかり縁がなくなり時は過ぎていきましたが、昨年の春にたまたま「茜海」という渡辺貞一の小品に出会いました。
古めかしい絵でしたが、朱に染まる津軽の冬の海に向かい、凍てつく道を背を屈めながら歩く男の姿に、なんとも言い難い憂愁を感じ思わず手に入れることにしました。

渡辺貞一 「茜海」

その後、これをきっかけに渡辺貞一作品をを多数所蔵している八戸市美術館から資料を取り寄せるなどしながら、作品を少しづつ集めてみる事にしました。
そうすると不思議なもので多くの情報が寄せられ、一年のわずかな期間でしたが20点ほどの作品を集めることが出来ました。
こうして集めた作品を眺めてみると、一点一点の表現が多様であり、多彩であることにあらためて驚くとともに、テロや戦争という人間の尊厳や情感を失ってしまう世相にあって、枯れきった心に潤いを与えてくれる津軽の叙情に胸を打たれました。
華やかな時代をあっという間に通り過ぎてしまった作家を今一度振り返り知ってもらいたいとの思いで展覧会を企画しました。
美術館や、150点近くの渡辺作品をコレクションしている方からの購入希望の問い合わせもあり、その反響に驚きつつも展覧会の初日を心待ちにしています。

2月4日

お世話になっているコレクターの方から次のような年頭コラムを頂戴しました。

リンダリンダというヒット曲をご存知だろうか。
今は解散してしまった80年代のロックグループ「ブルーハーツ」の代表作である。
高度成長過程の学歴偏重社会に対して若者達が「ドブネズミみたいに美しくなりたい、写真には写らない美しさがあるから」という歌詞に熱狂した。
「ドブネズミみたいに誰よりもあたたかく」と歌詞は続く。
既成の価値観にNO!を突きつけて時代の若者の心情を揺さぶった。
このブルーハーツの熱いメッセージが昨年末に甦った。
鴻上尚史とサードステージによる音楽劇「リンダリンダ」の上演である。
物語は失われた音楽仲間の故郷の干拓工事に対する破壊活動というストリーを軸に全編通してブルーハーツの歌の数々が役者達によって熱唱され、超満員の観客の心を捉えて見事だった。
この芝居に対し朝日新聞の劇評が、飛び切りの感動と出会えた観客からすると信じられない酷評で驚いた。
感動する心が枯れてしまった評論家には熱い芝居が理解できなかったらしい。
今この時代に「80年代という激動の時代」をモチーフに選んだ劇作家の胸のうちに思いを馳せてみると、共感できることが大いにある。
全てに熱気が失われように感じられる今の時代、私達が失ってしまった「熱い想い、感動する力、懸命に努力する生き方」を再び甦らせる必要があるのではないだろうか。
朝日新聞の劇評家のように「鈍感で白けきった物言い」が横行するこの風潮の中で「いま何が問われているのか」を確認する必要がある。
異常気象台風や地震などが相次いだ昨年は、人間社会の営みの中でも信じられないような事件がたくさん起こった年でした。
人間としての生き方が問われた一年だったように感じます。
新しい年を迎えるにあたって、加齢とともに失われていく「心のそこから感動する力」をいま一度日常生活の中に回復したいと考えています。

芝居も劇評も見、読んでいないのでこのことには何とも言いようがないのですが、たまたま1日に書いた渡辺貞一展の思いとどこかだぶって感じられ、災害や戦争で喪失されてしまった心を揺さぶる感動を伝えることが私達の役割なのかなとの意を強くしました。

2月7日

望月展も最後になりました。
型染め、ガラス絵、陶オブジェ、ブロンズ、版画と多種多様な作品を揃え、そのどれもが望月らしさを失うことなく、優しく、心和ませる作品が並び、その多才ぶりを大いに発揮しました。
染色をベースに興味にそそられるままにあらゆるジャンルに立ち向かうその姿勢には本当に頭が下がります。
そのどれもが独学で習得したのですから尚更です。
今回の型染めは広い会場に対してあえて小さい作品で展示し、その上品で控えめなモノトーンの世界が今までの展覧会と違った静謐な空間を作り出してくれました。
それに付された短い言葉がその形のイメージを膨らませ、一点一点ゆっくりと作品と語り合うことが出来ました。
今までのように聖書や中世の叙事詩などから引用した言葉から作品が生まれるのではなく、作品から言葉が生まれ、その言葉と作品がが連なることで、望月さんの一大叙事詩を会場に奏でてくれたような気がします。
それと今回特筆すべきはガラス絵でした。
シルバーとゴールドの色彩で古びた銅版のように仕上げた画面は、まるで長い間地中に埋もれていた古代エジプトの出土品のようで、消えかかるような線で描かれた形と字は自然の中で風化していく洞窟壁画のような趣きさえ感じさせてくれました。
染色ではなかなか表すことの出来なかったマチエールの妙をこのガラス絵で創造し、また一つ新たな望月世界が出来上がったように思います。
会期中に演奏されたつのだたかしのギターの音色と波多野睦美の歌声と相俟って、静かで厳かな展覧会で新年のスタートがきれたことをうれしく思っています。

影と歩くのは淋しいから
  晴れた日いつも淋しい

型染め

夕方の花

ガラス絵

2月13日

3連休の画廊が空いている時を利用して友人達とその家族の展覧会をする事になり、「友美展」と称して休み返上でお世話させてもらいました。
油絵、日本画、水彩、版画、染色、陶芸、写真、書、などそれぞれ隠れた芸術力を発揮し、普段の画廊の仕事と違って気楽で楽しい3日間を過ごすことが出来ました。
毎日当たり前のように美術品に接している私ですが、こうして友人達が制作し発表する姿を見ていると、余暇をゴルフやごろ寝で過ごすのではなく、ものを作る喜びを味わい充実した時間を過ごす友人達がとても羨ましく思えました。
とかく素人がと軽く見ていた私ですが、皆なかなかの腕前で人生の達人達に多くのことを教わったような気がします。

明日からは先日もお知らせした渡辺貞一遺作展です。
早速に画廊にお越しいただいた渡辺作品を150点所有しているN様の京都のお宅に伺い、その中から10点の秀作もお借りすることが出来、おかげで更に内容の濃い作品が並ぶことになりました。
青森の新聞の2紙にも大きく取り上げられたせいか東北からのお問い合わせも多く、埋もれた作家を取り上げる喜びを感じつつ初日を迎えることが出来そうです。

2月15日

先日、金沢大学の名誉教授で地質学の権威のT先生から本を頂戴しました。
T先生とは金沢在住の開光市の作品を所有していただいている縁で、金沢大学退職後東京に戻ってからはたびたび画廊にお越しいただくようになったのですが、先月開催した望月通陽展の時にもお越しいただきしばらくお話をさせていただきました。
その時に先生が新聞に連載したクラシック音楽の熱愛コラムの本が出刊され、その中に望月さんがジャケットデザインしたつのだたかしと波多野睦美のCD「サリーガーデン」についても書かれていて、一度望月さんの作品を見たくて来たとの事で、美術だけでなく音楽にも造詣が深いことをはじめて知りました。
その翌日に毎週私が出席する会があり、その会の例会講演の演者になんと昨日会ったT先生が現れ、あまりの偶然に吃驚しました。
先生の専門の地質学古生物学の講演で「推古天皇はハワイ生まれ、国際深海掘削計画の話」と題して地殻に穴をあけてマントルを取り出し、歴代天皇の名前がついている北太平洋海底の海山列がハワイの地下深くにあるホットスポットが移動して出来てきたという説を証明する研究航海の話でしたが、ユーモアーを交えあっという間に時間がたってしまう楽しい講演でした。
まさか先生の講演を聴く機会があるとは思ってもいませんでしたので、その偶然には本当に吃驚しました。
講演が終わり、先生とお話させていただいた折に、この前話した音楽の本を持って近いうちに伺いますからと言う事で、先日お越しいただき貴重な本をいただくことになりました。
千田日記というペンネームで著した「他人におしつけるわがまま名盤・珍盤・告知板」という本ですが、不滅の名曲のCDをわかりやすく楽しく紹介した本で、とかく難しくなりがちなクラシック音楽を身近で楽しめるようなとてもいい本なので、是非皆様にもお薦めします。
古代を推理し解き明かす学問にもロマンがありますが、その研究の傍ら音楽や美術を楽しむ先生のお人柄がお話や著書からもうかがえ、学問一筋でない懐の深さに敬意を表さざるをえないこの1週間でした。
付け加えるに、この本の表紙の絵は開光市さんの奥さんのヒラキムツミさんです。

2月18日

昨年4月に東京駅にある東京ステーションギャラリーで「没後30年駆け抜けた青春・難波田史男展」が開催されました。
76年に小田急美術館、81年に西武美術館で開催され大きな反響を呼びましたが、私もその時に見た感動は今も忘れることが出来ません。
それをきっかけに、18点ほどの作品を集め、小山田二郎、清宮質文の水彩画を加え、85年には私の画廊で「水彩の美・3人展」を開いたこともあり、久しぶりに見た史男の作品を前にあらためてその美しさに心の震えが止まリませんでした。
史男は32歳の若さで瀬戸内海のフェリーから転落をするという不慮の死を遂げ、その短い生涯を終えていますが、描き始めた18歳の時から亡くなるまでに2000点にものぼる作品を描いています。
絶望と歓喜、不安と希望、青春の心の振幅の中から生まれた詩情豊かな作品は、未だ色褪せることなく多くの人の胸の中で光り輝いています。
私が詩的表現の作品に惹かれるのも史男の作品に出会ったことが大きく影響しているのかもしれません。
その史男の作品が久しぶりに手に入り紹介させていただきます。
1971年作「舟」というタイトルの作品です。
亡くなる3年前の作品で、船に乗ったおそらく史男自身が海中に漂う様を描いたように思われますが、何故か史男がノートに書きとめた詩とこの作品が重なり、あらためて史男の海に没した終焉に思いが至ります。

人は死んでゆく

ぼくもまた死んでゆく
海を見つめていると
海で死んだ人たちを思い
自分も海で死ぬことへの憧憬をおぼえる
そしてそこにある寂けさ
人間の孤独感
ぼくの作品に海景が多いのは
それ故かもしれない
東京ステーションギャラリー「難波田史男展」カタログー史男の詩より

2月24日

三寒四温、昨日の暖かさが嘘のような寒さで雪が降ってくるかもしれません。
その寒さの中を病気療養中の渡辺貞一さんのお嬢さんがどうしてもお父さんの作品を見たいとの事で、付き添いの方と一緒に画廊に来られました。
久しぶりに対面する作品を前に、無理して来て良かったと言っていただき、この一言を聞くことが出来ただけでも展覧会を開いた甲斐がありました。
展覧会前に渡辺作品を150点持っておられるNさんの京都のお宅を訪ね、40年にわたる渡辺作品との出会いから始まり、現在に至るまでの愛情あふれるお話を聞くことも出来、展覧会のおかげで新しいご縁が出来たことをとても喜んでいます。
このように一人の作家を追いつづけると言うことはお金だけではない熱い思いが無ければ出来ないことで頭が下がります。

一人の作家を追いつづけると言うことでは、もう一人ご紹介したい方がおられます。
岐阜で繊維業を営むAさんという方で、長い間、同郷の作家の熊谷守一を収集されてきました。
言うまでもなく日本の洋画界を代表する巨匠で、文化勲章を辞退するなど97歳まで孤高を貫き、身近な草木や虫、動物をモチーフに命の一瞬を単純明快な画風で描いた私も尊敬する画家の一人です。
私も今はこうした大家の作品を扱うことはなくなりましたが、以前にはこうした作品を扱っていたこともあって、Aさんにも熊谷作品を2,3納めさせていただいたことがあります。
そのAさんから久しぶりにお手紙をいただきました。
長年の夢であった熊谷先生の生涯を綴る画集「無形」を発刊するので出版記念パーティーに出席のお誘いでした。
残念ながら都合がつかず、出席できませんでしたが、後日熊谷夫妻のお召し物をいかした装丁で、糸綴じの素晴らしい本が送られてきました。
熊谷守一の生涯とその作品が掲載されており、Aさんの愛情のこもった本で、本当にいつまでも手に取り、眺めていたい画集です。

Aさんが巻末に書かれた言葉を紹介します。
「川には川に合った生き物が住む」
熊谷さんのこの言葉を己の心象として今まで過ごさせていただきました。
故木村定三氏(熊谷守一の大コレクター・その収集作品を全て岐阜の美術館に寄贈)の講演の折「熊谷さんの素顔を伝えることは古里を想う君のなすべきことだ」との言葉を心の糧として、この本の創作に向かってきました。
中略
郷土を同じくする私が微力ながら熊谷さんのご紹介をさせて頂けるとは生涯の幸せと心から感謝申し上げます。

人生を熊谷守一に捧げ、作品を収集するだけではなく、その生涯を一冊の本として上梓したことにコレクターの真髄を見せてもらいました。

3月1日

3月に入りいよいよ春到来です。
とは言え、春は名のみの風の寒さやで、まだまだ寒い日が続きそうです。
さて、来週からは春一番ということで、池田歩展が始まります。
私のところでは初めての展覧会で画廊に新風を吹き込んでくれそうです。
案内状の作品もそうですが、遠くに微かに見える形を目を細めて眺めているうちに、画面の中で一人自分自身が佇む錯覚に陥りそうな不思議な絵です。
12月に開かれた桑原弘明の作品でも、作品を覗くことで鑑賞する側と作品が一体化し、より身近に作品と接することが出来ました。
池田歩の作品も初めて見る方に同じ思いいだかせてくれる筈です。
初めての展覧会はいつもときめきを覚えながら、どんな作品を見せてくれるのか、どんな反響があるのか期待と不安を抱きつつ初日を迎えます。
一人でも多くの方に見ていただき、池田歩の最初のスタートの励みとなるよう願っています。

3月8日

ようやく春らしい暖かさとなってきました。
心も体も浮き立つ季節ですが、花粉症の人には辛い時期でマスクをしている人がいつもより多いような気がします。
昨日から池田展が始まりした。
前にもお知らせしたように、ぼんやりとした画面をじっと目を凝らしてみていると、くっきりと形が浮き上がってくる不思議な絵です。
案内状の作品だけではわかりづらいのですが、広大な飛行場の向こうにある飛行機や遊園地のジェットコースター、雪原の遥か向こうにかすむ海など日常のありふれた風景を、あらためて作者の視点で捉えた作品が並びます。
こうしたモチーフは写真のテーマに多く、最近では絵画にもこうした表現が増えてきたように思います。
ただこうした作品の多くは冷え冷えとした無機的なものが多いように思うのですが、池田の作品には作者の暖かい眼差しが感じられます。
初めての展覧会に感じる期待へのときめきが、間違っていなかったことがうれしくて、一人悦にいっています。

3月9日

美術コレクションの道先案内人・アートソムリエと称して活躍中のサラリーマンコレクター山本勝彦さんのコレクション展「アートへの誘い」が近くのギャラリー銀座フォレストで3月12日まで開催されています。
また時を同じくして、昨年の6月の日経新聞の連載記事に続いて3月7日発売のAERA誌にアート普及の紹介記事がカラー3ページにわたって紹介されています。
若い作家の作品を買うことが、個人メセナによる最大の作家支援との思いで、各方面でコレクションの楽しさ、醍醐味を推奨し、美術ファンの裾野の拡大に頑張っている山本さんにエールを送ります。

3月12日

百貨店の美術画廊にお勤めのMさんは知る人ぞ知るこだわりコレクターの一人です。
お勤めの傍ら、若手から物故まで好きな作家、作品を探して精力的に画廊を廻っておられます。
そうした中でも一番のお気に入りで力が入るのは小貫政之助という作家です。
小貫政之助の応援団長といっていいかもしれません。
小貫は18年前に63歳で癌のため亡くなりましたが、その切ないまでのエロスに満ちた女人像は鬼気迫るものがあり、一度魅入られると虜となって小貫の世界に嵌まり込んでしまいます。
画業一筋、孤高の生涯を貫き、評論家の言葉を借りると、弧絶することの自由の場に遊んだ作家で、未だその在り様を知る人は限られているようです。
MさんはAS通信というA画廊発行の機関誌に「僕の画廊散策日記」と題してお薦め展覧会や作家紹介を毎月寄稿していて、今回頂いた誌面にも柏わたくし美術館を訪ねた折に見た小貫作品(晩年は人物ではなく花も描いた)の感想を述べています。

飾ってあった小貫の「花」がひときわ美しい。
生の震えがありジーンと来た。
小貫が生きていた時代の色彩だが時代を超えて訴えかけてくるものがある。
小貫は今も生きている。

その日記にはたまたま私どもで先日開催した、同じ63歳で亡くなった渡辺貞一展についても触れていて、お褒めを頂き感謝です。

物故作家といえばギャラリー椿の「渡辺貞一展」にも感動した。
かかる画家の発掘・紹介こそ志ある画廊の仕事であると思う。
まだまだ発掘・顕彰されていないいい作家がいるではないか。

また損保ジャパンでの「DOMANI・明日2005」での山本麻友香にも触れていただいた。

参加アーチスト9名中、やはり山本麻友香に惹かれた。
彼女の今回の版画「SHOSE」、「MAMA AND I」に昔の彼女の作風が残っていて私の好みである。
この二つの作品は間違いなく母性というものを表現しているが、「SPOON MAN」や「WATER BOY」は子を持つ母親としての不安感が現れており、今という時代を衝いている。

若い作家から物故までこうして自分の目で評価していただけるのは有難い事とうれしく思っています。

3月18日

青森の野坂徹夫さんから作品が送られてきた。
コレクターのKさんからの依頼の作品である。
新作ではなく1994年に描かれたドローイングの大作で「歩く人」というタイトルで「野坂徹夫作品集」の巻頭と巻末の両方にも紹介されている代表作の一つである。
この作品はどうしても手放したくないと言って野坂さんが長い間とても大事にしていた作品だったのだが、野坂ファンのKさんがどうしても譲って欲しいと青森にあるアトリエまで押しかけて2年がかりでようやく手に入れた作品である。
久しぶりに作品と対面したが、成る程Kさんが執着した意味が良くわかった。
鉛筆の濃淡だけで描かれた作品だが、多様な色彩を使った作品以上に微妙な色を感じさせてくれる。
形もごくごくシンプルなのだがその存在感は圧倒的で、凛として歩く姿に思わず見とれてしまう。
Kさんはマーケティングプランナーとして活躍する傍ら、美術雑誌のコレクター紹介欄にカラー4ページにわたって掲載される程のコレクターで、私も長いお付き合いをさせていただいている。

その紹介欄で
「私の場合は、コレクションを楽しむというよりもLiving by Artという感じで、生きていることそのものが、アートを離れては考えられません。
大好きな作家との交流を通して、作品の美しさや感性を共有することが、自身の仕事に直結していると感じています。
マーケティング・コミュニケーションというのは人の心を動かす仕事ですから、人に感動を与える美しいアートやデザインがとても好きです」
と言うくらいの美術大好き人間で、工芸から現代美術まで部屋中にあふれんばかりのコレクションに囲まれ、アート生活を楽しんでいる。

「歩く人」も何とか隙間を空けてもらいK家の壁に飾ってもらう日も近い。

3月24日

国立のTK大学工学部社会工学科のC君から「都市におけるギャラリーの空間的特性に関する研究」と題した卒業論文の原稿が送られてきた。
C君は以前卒論を出すにあたり、何故京橋に画廊を出したのかといった主旨で、話を聞かせてくださいと言って画廊に尋ねて来たことがあった。
研究の目的として文化立国として程遠い日本の文化施策の現況を踏まえ、ギャラリーの立地特性を分析した上で、文化発信拠点としての役割をギャラリーが担えるかその知見を得たいとしている。
自分達では画廊の立地特性といったことをあまり深く考えたことは無いので、送られてきた原稿を興味深く読ませてもらった。
それによると、東京23区には1324の画廊があり、約40%が中央区に立地していて、銀座・京橋だけで522軒の画廊があるという。
集中エリアとしては次いで青山の62軒、他に赤坂、六本木、新宿と続く。
更に立地タイプを大通り沿い型、隠れ家型、裏通り店舗型の三つに分けて分析している。
こうした統計をとった上で、文化発信拠点としてのギャラリーの問題点と可能性について論じている。
京橋、青山地区の隠れ家・裏通り型ではギャラリーが文化発信意識を持っているのに対し、銀座・大通り沿い型では閉鎖的でそうした意識が低いとしている。
ギャラリーを一括して文化発信拠点と位置付けるのは難しいが、店主の意識とギャラリー同士の協力次第ではギャラリー集合が文化発信拠点となりうると結んでいる。
京橋に画廊を構え、京橋界隈イベントで近隣の画廊と手を携え、開かれた敷居の低い画廊を目指している私にとってはうれしい研究発表であった。
C君にはこれからもますます研究を深めてもらい、文化発信の担い手としての画廊の役割を世間にアピールしてくれるよう願っている。

3月26日

春らしい暖かさとなってきましたが、いつもなら早くに白い花を咲かせてくれる画廊の前の大島桜の芽吹きはまだのようです。
週末に現代美術を中心に熱心に画廊廻りをするコレクターのSさんはいつもGallery Reviewと題してメールで展評を寄せてくれます。
先日まで駆け足でニューヨークの画廊廻りもされてきたようで、Sさんのメールは展覧会をそれほど多くは見て廻れない私にとっては貴重な美術情報となっています。
そのReviewに先週まで開催していた池田歩展の感想を紹介してくれました。

「視覚がとらえた残像を、余韻として感じるところから表現したような作品で、観衆の立場からすると、事後の一瞬の静寂に包まれた気分ですね。地平線によって分断される荒々しい雪原、それとは対照的に澄み渡った青空、やはり何かの後を想像しないでいれません。ふと見上げた瞬間目にとまった看板、いまだに湯気らしきものが渦まいて、さきほどの喧騒が感じられます。神経質なほどの感性がとらえたビジュアル界。」

ある美術雑誌の編集長もありふれた風景にこれほどの臨場感を持たせてくれる作家を見たことがないと誉めていただき、今回それほど数多くの方に見ていただけなかった展覧会だっただけに、とても勇気づけられ次への期待が膨らみます。

3月28日

日記が長すぎとのご批判を度々頂く。
表現力が無いのでうまくまとめられず、ついだらだらと書いてしまう。
よく画家の人達には説明が多過ぎ、もう少しシンプルになどと偉そうに言っているのだが。
展覧会初日から雨で見える人が少なく、頑張って作品をたくさん描いてくれた杉田さんも拍子抜け。
杉田さんの作品は以前よりマティエールを軽やかに、モティーフも見る側にイメージさせるような幾何学的な形を配し、挿絵的な要素が消えてきた。
それでも、もう少し作家から語るのではなく、見る側からストーリーが出来上がってくるような画面になるといいのだが。
可能性のある作家には、こうしたことも言えるのだが、私の日記となると・・・ また長くなってしまった。

3月30日

オークションで難波田史男と中本達也の作品を手に入れた。
有元利夫の油彩が出品されているので出かけたのだが、思わぬ作品に出会い、運良く落札することが出来た。
この2点についてはあらためて紹介させていただくが、今日はオークションについて触れてみたい。
私もしばらくオークション会社の社長をやっていたので昨今隆盛のオークションには関心がある。
オークション市場の出来高も昨年には100億円を突破し、4月にはシンワがヘラクレスに上場と美術市況が低迷する中でその勢いはとまらない。
長い間、オークションは交換会と称する業者間取引だけの閉鎖された市場であって、その中ではごく限られた作家の作品だけが売買され価格が形成されてきた。
業者共通の価値観だけが優先し、一般コレクター不在の偏った市場が形成され、欧米には見られない日本独特のオークションシステムが構築されていた。
バブル経済がはじけ、金融システムが崩壊する中、債権処理をするにあたり多くの美術品が市場に放出されることとなり、資金力を失った業者に代わり、その受け皿としてオークション会社が台頭することとなった。
オークション会社は広く出資を募り、在庫を持たず、出品者・落札者双方から最低でも1割づつの手数料を取り、落札者の入金は1週間後に、出品者への支払いは1ヶ月後と資金繰りのリスクも無く、更には美術業者としての眼力を問われることも無く、その時受け入れられる美術品を扱っていくという、美術品ビジネスとしてはこれほど効率のいいシステムは無いであろう。
こうしてオークションが盛んになると、反面今までの美術業者は価格がオープンになる事と、業者だけに共有してきた価値観が崩れる事で、不況と相俟って、その存在は危うくなってきた。
作家を育てることも無く、売れっ子作家だけを追いかけ、販売は百貨店頼みといった画商達にとってはまさに死活問題である。
談合、護送船団方式といったシステムが崩れていったのと同様に、日本独自の密室での価格形成、流通システムはいずれ消滅するに違いない。
ではどうすれば美術商は生き残れるのかといえば、これも欧米同様にそれぞれが独自の作家を育て、常に新作発表の場を提供し、コレクターと直接接点を持つことで、オークションというセカンダリーマーケットではなく、プライマリーマーケットを構築していくことである。
とどのつまり、画商として当たり前のことをやれば良いわけで、この当たり前が行われてこなかった日本の美術業界こそがイレギュラーだったのだろう。
昨今、私の知らない作家達の展覧会で次々と売約の札が並び、多くのコレクターが独自の視点で収集した作品を公開し、紹介する機会が増えてきた。
オークションの隆盛が、価値観の多様化をもたらし、それぞれが自分の価値観で美術品を評価する時代がようやくやってきたような気がしてならない。

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