小林裕児氏インタビュー
・・・タイトルは空夢(そらゆめ)
空夢というのは、現実ではない現実みたいなものを描きたくて、全体としてこういうタイトルをつけました。
・・・紙の作品と木の作品、その素材感で受ける印象はかなり違うように思います。
タブローとドローイングという風に少し分けて考えていて、木の作品は、オブジェみたいにしっかりとした立体の形状を持っているけれど、ガラスをつけることによって、ガラス自身の儚さがイメージに付随してくる。ドローイングは、紙の中に染み込んでいくように描いていて、なるべく素材を加工しない状態で、これは(何十年使われているか分からないけれども)実際の生活の中で使われた紙なんです。この表面にあるシワや貼り合わせは、僕が作ったんじゃなくてすべてこれを使っていた人達が繕ったものです。
・・・「古い紙を使うことは、縦に歴史の中に入っていくこと」と言われていますね。
世界の中で孤立して絵を描いているわけではないので、縦にも繋がりたいですし、横にも同時代ということで繋がりたいと思っているから、それはすごく意識しています。
・・・繋がりという言葉をお聞きして人間の体の中には、表層から深層、古層へと遺伝子が、縦に連なっているような気がするのです。
それは時間のことですね。それはすごく意識しています。僕らがこれから認識することは、すべて過去に属するわけですよ。新しく表出するものというのは一瞬でしかない。絵の制作過程を見てもそうですね。それは僕自身の今までのすべての時間とかかわっている。そういう意味で、こういう古い素材を使う仕事が大事になってくる。それと共に10年ぐらい前から日常的にスケッチブックにドローイングをするようになりました。今はもう300数十冊あります。そのくらい描いてくると描く努力とか、そういうものが意味を失ってきて自然に出てくるイメージに付き合うしかない。表層の意識で何かをねじ伏せて作ったりするのではなくて、場と空気の中で僕が作るものが、時代とかみ合っていれば、それがいちばんいいかなと思っています。
・・・縦軸ということで、ふっと思ったのですが、人間は重力から逃れられない。作品を拝見していると、重力を取り去ったときの自由な遊泳を描いておられるように思うのですが。
地上にいるんだけれども、空中にいるみたいな、それは一種水中みたいなイメージで、この状態をを意識するとイメージがつかみやすいんです。一方で、僕らは重力から自由になれないわけで、地面の助けを借りて立っているわけです。二本足という不思議なバランスの中で我々は立って生活しています。それによって脳も与えられただろうし、手の自由も与えられて発達したといわれています。スフィンクスの謎じゃないけど、絵を描くときは三本足なんですよ。筆とか手が紙に触れるでしょ。
絵を描く行為というのは、絶対に触らないと作れない、三つで支えて、ある安定の中で描くんです。絵を描くことで気持ちが解放されるのは、そういう安定があるからだと僕は考えていて、すごく平和な行為だと思っています。
・・・三本で安定しているから絵が描けるという発想は、思いつきませんでした。
僕はそう思ってますよ。僕らがいちばん誤解されるのは、何かを考えて作るのではないかと思われていること。僕は少し違って、手を動かすことで偶然手が作り出すことの方が強いと思うんです。考えて作ったものというのは意識が勝っているから、ずっと我々が抱えてきたようなDNAレベルのイメージに触れないと思うんです。我々の頭蓋骨は固いから、石頭でしょ。僕はトレーニングで少し隙間を開けることに成功したと思っているんです。それはどういうことかといえば、起きたまま夢を見れる能力みたいな、それがイメージだと思うんです。そういう風にして僕の絵はできています。
それとね。もう一つには、個性という風にはあまり思わない。自分を描いているとも思わない。むしろ関係性が絵だと思う。三点で絵を描くように、例えば対話であれば、二点の関係ですよね。そういう関係性が我々の表現行為だと僕は解釈していて、絵をそういうものとして成り立たせたいと思っているんです。
・・・関係性ということでスナイパーが登場したのでしょうか。
セックスピストルズを愛聴して育ったイギリスの劇作家マーチン・マクドナーの原作を、長塚圭史が演出した「ウィー・トーマス」という芝居が2003年に初演されまして、それは過激なまでのブラック・コメディだったのです。あまり見た人は居ないみたいですが、今年また再演されたんです。
ウィー・トーマスは、アイルランドのIRAから分派した過激派のテロリストが可愛がっている黒猫の名前なんです。この中尉はマッドで人を殺すことなんて全然気にもしていない、恐ろしい存在。でもその愛猫が死んでしまってすったもんだするという話なんですが、とても冷徹な批評精神が現代をうまく風刺していて、新感覚の劇だと思います。世の中は奇っ怪で不穏な空気に満ちている。オウムが出てきたときも、すごくそれを感じました。9・11以降という言い方はしたくないけれども、イラク戦争の問題など中東は紛争が後を絶たないし、社会のシステムや価値観も大きく変わってしまいましたよね。それを意図したわけではないけれども、今展では大作の二点にはイメージ化したユーフラテス川を描きました、その横の壁に盲目のスナイパーのドローイングをを配置しました。僕の中には物語を復権したいという気持ちがすごくあるんです。物語は美術から追い出されてしまいました。音楽からも多分そうだと思うけれど、そういうものがもっと総合的にあるような形を模索したいなと思っているんです。
・・・ご覧になる方は、その人なりの物語を紡ぐのではないでしょうか。
今回若い劇作家の広田淳一さんに絵を見てもらって、お話を作ってもらいました。それがすごく面白かったんです、コラボレーションというのは、こういうことをいうんだなと。絵描きの視点とは全然違うというか、イメージの持ち方が違うんです。劇作家は絵を見て、すぐに物語を作ってきてくれましたから、誰もがそれぞれの物語を持つんじゃないかと思います。むしろそうであるような絵を描きたいと思っています。
・・・今回パフォーマンスは美術家とご一緒に。
ええ。オープニングイヴェントで、美術家の石井博康氏と世界的に活躍するコントラバス奏者の齋藤徹氏とともに「ア−トバトル」と題してライブペインティングを開催する予定です。石井さんはもともとは、大地の美術家といって、地べたをそのまんま剥ぎ取るような仕事をする方、コントラバスの齋藤さんとは、もう10回くらい組んでいますが、コントラバスを音の出る箱という風に考えている方で、雑音も音楽の一部という考え方なんです。
・・・雑音ですか?
現代筝の第一人者の沢井一恵さんが、「琴でいちばんいい音はなんですか」と問われたときに、それは立て掛けた琴の弦に、風があたる音がいちばんいいと言っています。ある意味それは雑音かもしれないけれども。今はいろいろな感覚を麻痺させるものがたくさん出てきて、そういった雑音がどんどん失われてきているのだなと、考えているんです。
・・・確かに現代では、それがいちばん聞こえないですよね。例えば絵もそうじゃないかと、子どもの頃から絵というのはこういうものだと刷り込まれると、大人になってそれが邪魔してしまう。もっと自由に感じてもいいはずなのに・・・。
子どものときに土があったら釘で何かを描いただろうし、アスファルトやコンクリートがあったら、白い蝋石で遊んだじゃないですか。その延長ですよ。そうじゃないと楽しくない。絵を描く喜びというのはそういうものだと思いますね。
〜14日(土)まで。
(c)KOBAYASHI YUJI