映画や古い写真から取り出したイメージの上に、幾度となくドローイングを重ねたものが作品の基となっている。一つひとつ絵具を摺り込ませるように描いた画面の身体は、滲み溶け出し曖昧さを帯びながら、その意味は浮遊し続ける。万物、あらゆる物事を包含する「身体」という宇宙的テクストから、私たちの果てない想像力を喚起させる起動力となるような作品でありたいと思っている。
モチーフを映画や古い写真から得ているのは何故なのか?佐藤に聞いてみた。
明確な答えが返ってきた。
「“個”とは間逆の考えで、“人”の存在を描きたい。性別、国籍、人種、そういうものは関係なく人間としての存在を描きたい。自分で撮った写真をつかっていたこともあるが、そうするとどうしてもその人個人の内面にむかっていってしまう。だから個人をモデルに自分はつかえない。また自分の想像だけで人間をかこうとすると、客観的にかけない。内臓や奇形、グロテスクなものにむかっていってしまう。だから映画というフィクション、他人が作ったものが必要だ。大きなくくりの“人間”というものをかきたいからだ。」
佐藤の作品は曖昧に淡い色合いで描かれた人物画(主に映画の登場人物)だ。
写真をモノクロコピーしてぐちゃぐちゃにしたり、こすったり、破いたり、上から描いたりしたものをまたコピーする。その作業を何十回とくりかえして、映画スターの輪郭をぼかす、そして新たに佐藤が描きくわえて納得のいくまでコピーとドローイングを繰りかえす。そして、それをキャンバスに描いていく。
人間について掘り下げるのはヘビーな行為、だから色彩はきつい強い色にはできないのだそうだ。
人間を写し取ろうと写実で描く描き方もあれば、自己の中にもぐりこんで描く描き方もあるなかで、曖昧の中に浮き立たせ、客観的であろうとするこの突き放したようなこの佐藤の描き方は、見るものに対して何かを訴え、クエスションを与えるインパクトと面白さがある。
是非この機会にご高覧ください。150号の大作を含め約17点を展示します。