GALLERY TSUBAKI ギャラリー椿
呉 亜沙 展 My Position
2005年4月11日(月)〜4月23日(土) a.m.11:00〜p.m.6:30(日曜休廊)
My position

今回の作品はMy position という一連のテーマで制作しています。
Positionという言葉に含まれる、位置、場所、情勢、立場、境遇、地位、姿勢、様子、見解などのその様々な意味を包括しています。
今回のテーマに至る過程上、自分自身に対する問いを何度も繰り返しました。
アイデンティティーという帰属性を主に、現在の自分自身のPositionまで、様々な状況を描きました。
掛かれている人物は、自意識を強調するために描かれています。周囲のうさぎ達は、自意識の存在しない対象(他人であったり、固着観念)を指しています。鏡の中の存在、また、神秘的な象徴として物語りの中でしばしば擬人化されて登場してくる所から、うさぎを描いています。その無性格な印象、また、異世界の住人的な要素は、他人の意識、思考、また自分の理想に対して感じる“距離”とリンクする部分があります。
今回は自分の身近な状況を、その二者と共に描く子とによってMy positionをクローズアップさせようと試みました。

今回は自身の帰属性を示す場所(Parents’ home, Return to Tokyo tower, Studio)や、日常のコミュニティの象徴的な場所を(Public bath, Platform Construction site)描いています。自己の存在は他人との関係によって、場所が確定させられている部分を強く感じるからです。
また、Life dropsは、沢山の命が生まれ落ちてくるイメージを描いていて、その数ある誕生の中で何故自分が自分で生まれてきたのか、という視点を描いています。

呉 亜沙
他者としての私―呉亜沙さんの近作について

本江邦夫(多摩美術大学教授/府中市美術館館長)

 とあるブースの片隅、その中空に、これは私たち寄る辺なき現代人のメタファー、もしくは作者の淋しげな分身だろうか、人の子どもくらいの大きさの白いウサギがぶらんこに乗っている。おなかにはぽっかりと穴が開いていて、その向こうから、これを希望というべきか諦めというべきか、青空のようなキャンバスがのぞいている。昨年のKIAF(韓国国際アートフェアー、ソウル)の会場で、そのいかにもあやうげなインスタレーションを前に、まったく偶然のことだったのだが、作者の呉亜沙さんと初めてお話をする機会があった。
自分自身と作品を語る知的で明快な言語の持ち主―そうした初対面の私の印象は、一見ナイーフで幼げな作品のそれと馴染むものではなかったが、だからといって、知的な明快さあるいは制作の内なる硬質な核心という私の直観はまったくの見当ちがいのようにも思えなかった。
 それを実感させてくれたのが、今回のこれまでとは打って変わった趣の新作である。かつての、繊細なマチエールに維持されたどこか児童画をおもわせる温もりは消えうせ、ひたすら淡く澄明な色の広がりが、まるで冷ややかな気配の壁あるいは空白のように見る者に迫ってくる。ここで注目すべきは、このいくぶん催眠的な、白日夢のごとき世界もしくはヴィジョンにおいて住民といえば、ほとんど記号として簡略化された少女を唯一の例外として、無数の、これまた同じ記号のごときウサギであることだ。
 ここで注意すべきは、だからといって少女をそのまま作者の反映とみなしてはならないことだ。ウサギそのものにも作者の影が落ちていることは、銭湯の湯船にウサギが8匹つかっているところに、1匹のウサギが、たぶん遅れてやってきたところを描いた作品からもよく分かる。孤立した1匹のウサギの背中をつうじて、私たちはいきなり「1対8」の関係性、あえていえば対立に直面することになるのだが、こうしたいくぶん緊張をはらんだ構図にこそ作者の狙いがあり、ここで最終的に問いかけられているのは何かといえば、思うに、それは他者性の問題であろう。
 「私」にとって無数の他者がいる。私は特別だが、他者はそうではないし、ときに不気味であり恐怖である。しかし見方を変えれば、あるいは他者の側に視点を移せば、そうした特別な私そのものがすでに一つの他者性に括られていること、私もまた他者になりうることを否定するわけにはいかないだろう。
 呉亜沙さんの今回の個展はMy Position、「私の位置」と題されている。しかし、それはよくありがちな自己と他者を峻別するものではない、むしろ逆で、ふつうであれば対立的な両者を、無数の点の一部として同じ次元に配することで「私は誰でも知っている」、「誰もが私を知っている」(これらは作品の題名にもなっている)状況を一つの理念として提示するものなのだ。
 この意味で、画面一杯に描かれたウサギの顔、つまり作者からすれば自分でも他者でもありうるものの瞳に少女つまり分身の顔が映っている作品は、この画家において自他を超えていく思いがいかに切実であるかを告げている。そして私たちは同じような点の集合の一員として、そこに特別な美しさをみいだすのである。


呉 亜沙 展 My Position カタログ \500

お問い合わせ gtsubaki@yb3.so-net.ne.jp

Distributor (temporary communication)

Mixed media

My position -platform-

F60/oil on canvas

My position -coming and goings-

呉亜沙 HP
http://www.geocities.jp/goasamail/

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