GALLERY TSUBAKI ギャラリー椿
山本麻友香 展
2004年10月18日(月)〜10月30日(土)
a.m.11:00〜p.m.6:30(日曜休廊)
根源への意志 |
本江邦夫 |
あれは一昨年だったか、山本麻友香さんの作品をはじめて目にしたとき、すべてがぼんやりとしたシルエットでありながら、どこか記憶の奥底にはたらきかけてくる不思議な感覚を味わったことがある。とりわけさまざまな西欧の少女の、おそらくは写真を手がかりとした絵にその感がつよく、その無言の影のような存在に、遠くボルタンスキーをおもわせる「告発」のようなものを感じたほどだ。こうした原型的なもの、始原的なものを求めるつよい志向はこの画家に一貫しており、あるいはそれとの絶えざる差異ないし葛藤のうちに彼女にとっての芸術は胚胎されているのかもしれない。自分の母親の身体を銅版にじかにかたどったモノタイプ、≪mama≫のシリーズ(1996年)はその典型とも言うべきものだ。しかも、注目すべきことに、ここで個性的なものはすべて抹消されているではないか。 同じことは最近作の幼い少年をモチーフとした一連の制作でも明らかだ。発端となったのは山本さん自身の出産と育児という特殊にして根源的な事情にちがいないが、ふつうの女流画家であれば、いや、大体が芸術家というものは、子どもとか育児の話は避けるところを、このひとは「子どものことしか考えられなくなって、今から思うと不思議なんだけれど(…)巣づくり行動とかしてるんですよ。すごく大きいお腹をしているのに大掃除を始めたり…」などという。その一方で実際に描いているのはまさに原型的、もしくはどこかジュリアン・オピーの人物をおもわせる、点のような目をした記号的な子どもなのである。 とはいっても、ただの子どもの絵ではない。猿の腕とか、鹿の角をした、その一部が動物と化している、あるいはつながっている未分化状態のヒトとしての子どもの絵なのである。 子どもとは何か?大人になる以前の未成熟な生きもの――というのは、西欧にいまだ伝統的な考え方である。ラテン語で「幼児」を意味する infans (英語の infant)はそのものずばり「話せない者」の意味。だから子どもは犬のように調教すべきなのである。しかし、そういう未分化の存在であるからこそ、子どもは存在の生あたたかな暗闇もしくは混沌にもっとも近づいているのではないか。 あえてプラトンを持ち出さなくとも、私たちは大いなる、多にして一なるものからほとんど無限に分離され、放逐された存在である。ここで悲劇的あるいは喜劇的なのは、そうした存在の故郷のかすかな記憶を宿したまま私たちが生きていることだ。分離された者にはつねに合一、合体の衝動がつきまとうが、それは結局のところは――これをエロスと呼んでもいいだろう――私たちの、存在の根源への意志ともいうべきものであり、すべての芸術はここに出来するのかもしれない。 山本麻友香さんは育児に追われるなか、2、3号のキャンバスを用意しておいて、スキをみつけてはイメージを描きつけたものを整理、拡大して作品としたのだという。ここに、この必死の営為に、大いなる根源との格闘を直観するのは私だけではあるまい。これらの静謐な子どもの絵にはエロスの影が落ちている。ただの子どもの絵ではないのである。 |
(多摩美術大学教授/府中市美術館館長) |
Volition towards “Mother” as Fountainhead Kunio Motoe I believe it was some time
last year when I first saw the works of Mayuka Yamamoto. While each
of her works consisted of obscure silhouettes, I felt that there was
something
within them that was striving to penetrate into the depths of my
memory, something so powerful that it left an after-taste of mysterious
sensation in my mouth. Particularly, her paintings left
me with strong feeling that perhaps photographs of various occidental
girls served as her hints for these works. Their existence, like some
silent silhouettes, reminded me of something quite similar to Christian
Boltanski's
“the Accusation”. There is a consistency in these works of the author’s
powerful orientation to seek out this kind of prototypical element.
The artist’s own mother’s body directly imposed upon copperplates used
in the works of her “mama” series (1996) is representative of this
consistency, which may actually germinate the conflict of the ceaseless
gap between the works and the
concepts in these current works.Shouldn't we also recognize the significance
of the fact that any semblance of the personality of her mother has
been dutifully scratched out as well? |
よくわからないこととして、しかしその問題を描くということをやってきたように思います。 そして今はこれらの”奇妙な子供”ともいうべき作品を描き終えたところです。 |
山本麻友香 |
お問い合わせ gtsubaki@yb3.so-net.ne.jp |
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Spoon man 120x100cm oil on canvas 2004 |
Pink bear oil on canvas 2004 |
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blue pond
227.3×162.0p oil on canvas 2004 |
little pink bear
131.0×89.5p oil on canvas 2004 |
ape arms
116.7×80.3p oil on canvas 2004 |
new cow
130.0×120.0p oil on canvas 2004 |
water boy
162.1×130.3p oil on canvas 2004 |
pengins
72.7×100.0p oil on canvas 2004 |
関連情報 2003.2 2003.1 2002.10 2000.7 2000.7_2 1998.3